本当は文化なんてどうでもよかったりする。
50年後も、文化(/社会)人類学が存在しうるのであれば、
「人類」の存在論をまっこうからやるしかないでしょう。
人類学が消滅しても最終的にはかまわないし、
消滅するだろうと思っているけど、
その寸前のところからでしか出てこないものもあると思ってる。
そのためにも、
まずは文化と自然の問題系をどこまでも掘っていきたい今日この頃です。
本当は文化なんてどうでもよかったりする。
50年後も、文化(/社会)人類学が存在しうるのであれば、
「人類」の存在論をまっこうからやるしかないでしょう。
人類学が消滅しても最終的にはかまわないし、
消滅するだろうと思っているけど、
その寸前のところからでしか出てこないものもあると思ってる。
そのためにも、
まずは文化と自然の問題系をどこまでも掘っていきたい今日この頃です。
Posted at 06:27 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
面白そうなら躊躇しない、それが大事。
ま、書いた後はいつも鬱になる、
それも事実。
でもだからこそ次、次、次、ってことですからね。
今は集中!
Posted at 20:36 in 日々雑記 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
よく出典を忘れるので。
ミシェル・フーコー「構造主義とポスト構造主義」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ 自己/統治性/快楽』pp298-334):322-323
「知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。理性が自らの必然性として経験すること、あるいはむしろ、合理性の様々な形態がそれらの必然的なあり方として与えるもの、それらの歴史を完全に語ることができるでしょうし、それらのことがそこから発生した偶然性の網の目を再発見することができるでしょう。だからといって、それは合理性の諸形態は非合理的であったということを意味するのではありません。それが意味するのは、合理性の諸形態は人間の実践と人間の歴史からなる台座に基づいているということ、そして、これらの事柄はなされたのだから、それらがどのようになされたのかを知れば、それらは解体されうる、ということです。」
Posted at 09:22 in 生権力 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
【読書ノート】
Practice Theory
Joseph Rouse 2007
In Stephen P. Turner and Mark W. Risjord. (eds.)
Philosophy of anthropology and sociology Elsevier pp: 639-681.
➠20世紀末の数十年間、「実践」(practices)は、人類学や社会学ないし歴史学の関連領域
などにおいて次第に重要な主題となってきた。
↓しかし↓
➠実践概念が広範な潮流(社会科学、社会理論、哲学におよぶ学問領域)において用いられてきたことは、この概念が理論的一貫性を持たないことを示しているようにも見える。
:S.Turnerは、実践概念は諸学の根本的問題を解決するかのような装いのもとで広まったが、その結果この概念が表面的で空虚なものであることが明らかになったと論じる。
↓対して↓
➠本稿では、一章で実践論の主要な理論的根拠と方法論を検討しながらそれらの理論的一貫性を示し、二章で実践論が直面している主要な理論的課題について検討し、実践をめぐる諸概念が社会理論/哲学にとって依然として重要な学問的資源であることを示す。
1章: 実践論(Practice Theory)とは何か
以下、社会理論・社会科学・哲学における「実践」をめぐる主な6つの議論を検討する。
1.1 実践、規則、規範
➠実践論の重要な哲学的背景は、「規則に従うこと(rule-following)」をめぐる後期ウィトゲンシュタインの考察と、ハイデガーによる「理解」や「解釈」についての論述であろう。彼らは、「規則」「規範」「規約」「意味」等を強調しながら社会生活や人間理性を説明しようとする考え方に対して根本的な議論を行った。
:社会/文化は、自然法則に規定された物理的/生物学的過程ではなく、有意味な振る舞いに関連する規則や規範によって規定され構成される活動や制度の領域だ、という見解。↑本稿全体をつうじてregulism(規則主義?)と呼ばれる考え方の社会科学版。
:こうした考え方の源泉は、カントが唱えた[自然法則に従う振る舞い(behavior)/法=規範に従う行為(action)]の二分法にある。彼にとって、規範(norm)とは個々人が自らに課す規則(rule)に他ならなかった。人間的な思考と行為の規範性に対するこうした考え方を批判したことが、ウィトゲンシュタインとハイデガーの実践論に対する寄与の由来である。
○ウィトゲンシュタイン:ある規則をめぐっては、逸脱的な仕方でそれに従いうる可能性が常に開かれている。規則を解釈する仕方を特定したとしても、その解釈自体が新たな規則となってそれに対する逸脱的解釈の可能性が再び生じる(→補足資料参照)。
○ハイデガー:解釈は、それがなされる状況に対してあらかじめなされた理解を背景としてのみ可能である。例えば、ハンマーで釘を打つ時には、大工仕事や道具に対する全般的な理解、当該の行為を構成する一連の過程についての理解、その行為によって何が達成されうるかについての理解があって初めて、この行為の意味を適切に解釈することができる。これらの先行する実践的把握があって初めて、ある行為が「ハンマーで釘を打つこと」を意味しうるのである。
➠「規則は自律的である」ないし「意味は明示的に言明される」といった考え方に対する両者のこうした批判は、社会科学の哲学に大きな影響を与え、「人間が何事かを理解するということ(=知性や思考能力)には我々がなすことのうちに表される次元があり、この次元は当の理解についての明示的な解釈よりも根本的なものである」という見解に帰結した。
:両者が提示したような種類の規則の遂行や背景的な理解がなされる場を示すものとして、「実践」という概念は広く社会理論に導入されてきた。そして実践論者たちは、ウィトゲンシュタインの「規則に従うことは『生活の形式における一致』から導出される」という見解や、ハイデガーの「あらゆる人間存在の最も基本的な言明は、個人的な自己決定によってではなく、その当人がなすこと(what one does)に由来する」といった見解をより発展させんとしてきた。
↓こうして↓
➠実践論は、①私的で精神的な事象ではなく公的で観察可能な行為の遂行(パフォーマンス)に注目し(行動主義との類似点)、②それらのパフォーマンスを「厚く」記述し把握するよう試みる(行動主義との相違点)とともに、③外的な活動の只中において規則や規範や概念が有意味なものとして具体化=身体化(embody)されうると主張してきた。
1.2 社会構造ないし文化を個人的主体と調和させること
➠実践論はまた、<個人的主体>と<社会/文化的構造>のどちらが分析において優先されるべきかという長年繰り返されてきた論争を媒介することを主題としてきた。
:社会科学は社会的な全体(制度、文化、社会構造)を解明すべきとするwholismと、
そのような全体など何処にあるのか、存在するのは個々人の活動のみではないかという反wholismの対立。
↓対して↓
➠実践論は両方の主張の重要性を受け入れうる。
:ある次元において実践は個々人の行為遂行(performance)により構成されるものであるが、
行為が理解可能なものとなるのは他の諸行為が構成する背景との関連においてのみ。社会
的/文化的構造は、実践とその伝達により常に再生産されるものとして動的に把握される。
↓しかし↓
➠ここで根本的に問題になるのが、社会的な実践のパターンはいかにして個々の実践者の行為を規定し構成しうるのかということである(Turner:この問いは回答不可能)。
:Taylorによればこの問いに対する戦略は主に二つで、「ルールに従うことは一つの実践である」というウィトゲンシュタインの主張に対する以下の二つの解釈に対応している。
①規則に従うことの背景となる諸要素の結合は、正当化によってではなく事実上のつながりとして存在する。(Ex. Kripke:模倣や訓練や罰則をつうじて規則が伝達される)
②規則に従うことの背景には、通常は言明されないが規則への挑戦がなされた時には規則に従うことの理由や説明を定式化することができるような具体化された理解が存在する。
↓しかし↓
➠前者の見解を十全に論証しようとすれば、規則のあらゆる因果的基盤を明確に示すという不可能に思われる課題を背負いこむことになるし、後者の見解を十全に論証しようとすればカント的な規則論にまで退行してしまい、実践論本来の洞察を失う危険性が高い。
↓とはいえ↓
➠両者のアプローチを結合する方法は存在する。
:例えば言語習得の局面を考えると、言語的記号を差異化する能力なしに言語を習得することはできないが、この能力とそれを再生産する傾向性は模倣によって生み出される。言語を学ぶものが話者の意味ある発話をその意味を知らないまま模倣すること、模倣された発話を既に意味あるものであるかのように話者が適切に反応することによって始めて言語習得は可能になる(他の多くの実践論者、Dreyfus, Foucault, Scatzki, Brandom等の議論も二つのアプローチを結合している)。
1.3 身体技法と規律
➠人間の主体性と社会的相互作用を身体的なパフォーマンスとして捉える見方もまた、実
践論の主題となってきた。
:自然界の因果的影響下にあると同時に自己志向的に振舞い表現するものでもある身体に注目することで、社会生活の因果的で規範的な次元と人間的主体性の個人的で自発的な特徴を調停することが目指されてきた。そこでは以下の二つの極端な見解は回避される。
・客観的に記述可能で因果的に規定される自然物としての身体。
・意識的で反省的な思考に基づく行為の透明な媒介としての身体。
両者のどちらでもないオルタナティブな考え方が様々な論者によって提示されてきた↓
・M.Polanyi:身体は「実践的知識」の場である。それは因果によって規定されるものでもなく、意識的に言明されうる理性的行為でもない。
・H.Dreyfus:①個々の指令は身体において実践的に統合される。事物とは異なり、身体の各部は全体として共に動き、熟練した運動のなかで一つの結合体として働く。②身体的なパフォーマンスは、意図的な仲介物(意味や表象)の介在なしに、対象に対して志向(意図)される。知覚と行為、身体的受動性と自発性といった明確な区別は存在しない。③身体技法はフレキシブルなものであり、変化する状況に対して柔軟な反応を絶えず生み出す。熟練した身体技法は、同一の課題に対峙しても状況に応じた異なるパフォーマンスを繰り出すことができる。④ただ、非熟練者の身体的振る舞いは明確な規則に従う。
↓以上のような↓
➠身体的な主体性や意図(志向)性への注目は、社会的規範や権力が身体の規律化を通じて具体化され組織されるという実践論においてしばしば強調される論点と矛盾するように見えるが、そうではない。
:Foucaltによれば「権力」はその重要な要素として「自由」を含む。「権力が行使されるのは、ただ自由な主体に対してだけであり、主体が自由であるかぎりにおいてである。[・・・]自由な主体による抵抗がなければ権力は物理的な決定と等しくなってしまう)」(『ミシェル・フーコー構造主義と解釈学を超えて』収の論文「主体と権力」から抜粋)。
社会的実践は、それとの関連において人間が自分自身とその行為を理解するような、意味や可能性や事物を組織化するのである。Brandomの的確な定式化によれば、
「個々人における自己の育成は、一連の社会的実践に伴う新たな規律に自らを服従させることによって自由を遂行し拡張することのうちに構成される」のである。
1.4 言語と暗黙知
➠実践論における身体的な技法や傾向性への注目は、社会生活においては言語が統合的な役割を果たすという見解と容易に結びつかないという問題をはらんでいる。多くの実践論者はこの問題を乗り越えることを重視するが、相互に異なる様々な見解が提示されている。
:これらの見解は、しかしながら以下の同一の主張に対する異なる解釈に由来している。
「社会的エージェントが自らの行為を理解し、他者と相互作用することは、明示的に言明された命題や規則によって把握することはできない」
↓こうした↓
➠社会生活における非明示的な「暗黙」の実践の一部として言語を捉えようとした時に、広範に広まったのが、ある共同体や文化において「共有された前提」という考え方である。
Ex1「自らの行為を正当化する何かをもとめて大地を掘り進めても、地中の岩盤に突き当たるだけだ」(ウィトゲンシュタイン)。
Ex2社会的実践の理解可能性を支えているのは共有された前提である。その前提を解釈して明示化すれば新たな前提が足元に出現し、解釈が止むことはない(解釈学的見解)。
:だが、こうした主張は異なる実践を行う人々の間の「共約不可能性」(Kuhn)を帰結するに至って社会科学的分析を不可能なものとする極端な認識相対主義に転化しやすい。
暗黙の前提によって実践が構成されるという考え方は、その「前提」なるものを、概念体系としての言語(ラング)と同等のものとして扱うような極端な見解に至ってしまう。
↓対して↓
➠具体的な言語活動自体を社会的実践として捉える以下のような議論がなされてきた。
①言語行為論:多くの言語的活動が言語使用を通じた行為の遂行に他ならないと論じる。
②会話分析・エスノメソドロジー:日常的な言語的実践を通じた社会的営為に注目。
↑ただし、以上二つの潮流は言語の語用論的側面に限定して実践論的分析を行ったものであり、言語の意味に関しては言語的実践に先行して決定されていることを自明としていた。
③Quine,Davidson,Brandom:言葉使用とは、前もって獲得された体系的な構造によって可能になるものではない。それは、自らの言語的行為を合理的に解釈する活動であり(Davidson)、実践に参与する他者との関係において課せられる言語使用上の義務を個々人が記録する「Denotic scorekeeping」によって成り立つものである(Brandom)。
④Foucault:言説的な実践(discursive practice)を通じた言説の編成によって知の対象が構成される。非言語的な諸要素もまた、言説的編成と調和しながら実践において編成され、特定のかたちで権力と知の新たな形式を構成していく。
1.5 社会科学と社会生活
➠社会的実践の非明示的な次元への注目は、実践論がもう一つの主題に向かう契機となる。
:「前提」や「規範」や「身体技法」と呼ばれる社会的実践の暗黙の背景となっているものと、そうした背景を明示化せんとする社会科学や社会理論の試みはどう関係しうるのか。
↓大きく分けて3つの立場がある↓
①科学は客観的でなければならず、利害関心から離れ、純理論的に決定された概念を用いて現象を予測するものである(Bourdieu, MacIntyre, Polanyi, Dreyfus)。
②社会を理論的に説明しようとすること自体が、社会的実践の「自己解釈的」な性格と連続した営みである(解釈学実践論、エスノメソドロジー、フーコー的系譜学)。
③科学的探求自体が一つの実践であり、その限りにおいて社会学的な研究の対象となる(科学社会学、STS、実験室人類学etc)。
→社会科学的探求の認識論的・政治的・修辞的な目的自体が反省的論争の的になる
Ex.人類学における「文化を表象すること」や、科学研究における「再帰性」の問題化。
1.6 実践と社会的なるものの自律
➠実践論は、社会的コンテクストを個人的主体の思考や行為に還元するあらゆる方法論に抵抗する。Ex.社会生活の心理学的理解(「Folk psychology」)において信念・意図・欲望・知覚と、心理的状況に関わらない「命題的態度」が区別されることに対する批判(Brandom:両者はともに公的な言説的実践を通じて生じる規範的状況に他ならない)。
2章: 実践論をめぐる概念的諸問題
2.1 規範的regulismに対する応答としての実践概念
➠実践論が直面する第一の論点は、実践を強調することによって正当化と規範性に関わる問題が解決しうるかのという点である。この難点を乗り越えるために広く用いられるのが「Regularism」(規則性主義?)的な考え方である。
:規則とは結局のところ実践者がなすことのうちに示される規則性に他ならない。
↓だが↓
➠実践についてのRegularism的な考え方では、Brandomが“gerrymandering problem”と呼んだ困難にぶつかってしまう。
:一連の行為遂行は多くの規則性と同一視できてしまう。規則を都合よく変えてごまかすことは常に可能である。Regularismでは「規則に従う」ことに関してRegulismが直面した困難を乗り越えられないなのである。
↓対して↓
➠「実践についての規範的な考え方」(normative conception of practices)は、実践を規則にも規則性にも還元せず、実践を構成する種々のパフォーマンスの間の相互作用におけるパターンとして捉える。 :相互に規範的な説明可能性を表す。
個々のパフォーマンスは、それが構成する実践において適切/不適切なものとして説明可能である限りにおいて実践に所属する。伝統的な哲学的議論は、規範性をそれ自体は規範的でない要素(価値、規則性、社会的必要etc)に還元することによって説明しようとしてきた。これに対して、実践の規範的な考え方は、規範性を還元不可能なものであり、かつ説明可能なものとして捉える。この見解の重要な側面は以下の三つである。
①実践を構成するパフォーマンスが互いに互いを支える仕方が、実践を制約している。
:一つのパフォーマンスは他のパフォーマンスに対する何らかの反応(訂正、罰、模倣、翻訳etc)を表している。こうした、実践の諸単位における相互作用が実践を形成するという説明は言説的実践に関して広くなされている(ex.Latour&Woolgar “Laboratory life”)
種々のパフォーマンスは、それらが共有する意味論的内容や振る舞いの類似性によってではなく、相互作用の複合的なネットワークによって実践に統合されるのである。
↓だが、この段階における実践はまだ規範的なものではなく、まだ実践とは呼べない↓
② パフォーマンス間の相互作用のパターンは、問題とされ賭けられるものを産出する。(Ex:ユダヤ主義の実践においては「ユダヤ人であるとは何であるか」が問題化される)
:実践において問題とされ賭けられるものこそ、実践の通時性と規範的な説明可能性を示すものに他ならない。実践は本質的に論争的な何かに向かって自らを指し示すのである。
規範性についての哲学的議論とは異なり、問題化され賭けられるものをあらかじめ決定するような審級は想定されない。それらは常に非確定的なものである。
③こうした非決定性は、言説的実践において問題化される意味論的・認識論的規範にも適用される。「真理」、「客観性」、「主張を正当化する基準」等を決定することはできない。
・「真理というものが、我々が何を/いつ言うかに関わる規範的な問題であり、何が言われるべきかについての争いがあるのであれば、真理は解き放たれる。真理とは既にどこかにあって発見されるのを待っているものだと考えるべきではないのである。」(Wheller)
↓このように↓
➠実践の規範性とは、それを構成する種々のパフォーマンスの相互的な説明可能性において、そこで問題化され賭けられるもの―その最終的な解決は常に先延ばされる―に対して表される。決定を担う最終的な審級を拒否するこの考え方によって、社会理論と社会生活を連続的な関係において捉えることも可能になる。
:実践を構成するパフォーマンスは、すでにして、実践において何が問題であり何が賭けられているのかについての一つの解釈を表現するものである(社会生活→社会理論)。また、進行中の実践の外に出ようとする努力は、その実践の未来の姿を形成することに寄与するものとして当の実践に組み込まれる(社会理論→社会生活)。
2.2 言語、前提、言説的実践
➠社会的実践をめぐる理解や相互作用は言語によって表明されうる命題や規則によっては把握できないと論じてきた実践論者たちの主張は、現実的なものは真なる命題によって『汲み尽くされる』とする合理論の第一のドグマに対する拒否としてなされてきた。
↓だが↓
➠本質的に言明不可能で暗黙のうちになされるものとして身体的な技法や傾性を特徴づけることで、言語や言語的な表現可能性の限界をどう特定するのかが不明瞭になった。
:これらの実践論者は、自らのregulism批判の対象から言語を免除し、言語的な意味を、現実世界を超えたところにある領域(フレーゲにおける「意義」、フッサールにおける「超越論的意識」、カルナップにおける「論理形式」など)に追いやることによってのみ、表現可能なものと本質的に暗黙なもの(The tacit)の間に境界を引くことができたのである。
↓だが↓
➠言説的実践と非言説的実践の間に境界を引くことはできない。言説的実践が単に言葉を用いる以上の行為を含むからだけでなく、言明が我々のなすあらゆることを変容させるからこそ、言語的実践と非言語的実践を切り離すことはできない。最良の実践論は、自律的に表象を管理する領域として言語を扱う代わりに、人間生活に浸透した還元されざる側面として言語を考察するものである。
2.3 社会的なるものと生物的なるもの
➠大半の実践理論は第一に人間同士の行為からなる「社会的実践」に関心を寄せてきた
:社会的実践は自然界のなかで具体化されるものの、両者は切り離されて把握される。
↑カントの[自然法則に従う現象界/合理的な法観念に従う行為の世界]という区別を維持。
↓だが↓
➠社会的世界をその自然界から切り離して捉えることは誤っている。
両者は単に相互作用的(interaction)なのではなく、親密的(intemacy)である。
:精神と世界の間に明確な境界がないだけでなく、身体と世界の間にも明確な境界はない。
➠自然界と社会的世界の親密さについての様々な論拠を実践論は提示している。
①社会的実践は身体化されるものであり、身体技法は環境から与えられるもの(アフォーダンス)や環境による抵抗に対する反応を通じて形成される。
②人間の実践において、「物質文化」や様々な装置は統合的な役割を果たす。規範的な社会的相互作用と(自然的ないし技術的に構築された)因果的-環境的連鎖の間の境界も否定されるべきである。
②言説的実践が適切に概念化されるためには意味論的な外在化が必要である。言語の規範性を理解するためには、言語学的関係性だけでも語用論的関係性だけでも足りない。言語使用は、発言がなされる環境に密接に結びついているからである。
➠発達論や進化論の理論家達によれば、発達は環境との相互作用のパターンを含むものであり、そうした発達のパターンが進化に統合される。人間の話し言葉や書き言葉は、人間の生物学的発達がなされる環境の属性であり、言語の再生産は生物学者が「ニッチの構築」と呼ぶ有機体が自らの発達にともなって環境を形成する手法の顕著な例であろう。
↓このような見地を含みこむことで↓
➠実践論は、生物学的決定論に対する防波堤としてではなく、より適切な人間の生物学的理解における除去されえない側面として社会科学の規準を保持するものとなりうるだろう。
[補足資料](久保明教2006「現代ロボティクスについての人類学的考察」より抜粋)
ソール・クリプキは、ウィトゲンシュタインの著作『哲学的探求』の読解をもとに、規則に従うということに関する懐疑的パラドックスを提示した。
懐疑論者の言うことは極端に突飛に見えるが理論的には論駁できない。私たちは普通、自分が「+」による計算を把握している(つまり足し算ができる)ということを、過去に行った有限回の計算だけでなく将来行う計算についても同じ規則に従って計算する、ということだと考えている。懐疑論者の主張を全く間違っていると感じるのは、彼が行うべきだと言う計算の仕方が、「私」が今までやってきたこととは全く違うものに思えるからである。しかし、「私」はこれまで有限回しか「+」を使った計算を行っておらず、それらの有限個の計算は「クワス」という関数に従っているとみなすこともできるから、これから行う「私」の計算が過去に行った計算の規則と同じものでなければならないならば、計算の答えは「5」でもありうるのである。57より下の数の足し算しかやったことがないという人はまずいないだろうが、ある程度大きな数になれば過去に一度も計算したことがない足し算は存在するだろう。したがって、懐疑論者の矛先は自分が足し算を理解していると考える人全てに向けられうるのである。
クリプキの議論が何を意味しているのか理解するためには、彼がどのような考え方に懐疑を投げかけたのかを慎重に把握しなければならない。懐疑論者をだまらせるのは簡単である。彼が「68+57=5」などと言わなくなるまで、68+57は125だといい続ければよい。実際に我々はそうやって足し算を学習させられたのではなかったか。我々が懐疑論者の主張を深刻な問題であるように感じるとしたら、それは我々が懐疑論者と同じ前提にたって考えるときだけである。その前提とは次のような考え方である。
<我々が「規則にしたがっている」と感じる時のことを考えてみると、自分の過去の有限の振る舞いを規定してきた「何か」があって同じものが未来の自分の振る舞いをも導くように感じられる、だからその「何か」は過去の自分の振る舞いを振り返ることで特定できるはずであり、それこそが「規則」である>。
クリプキが懐疑を投げかけたのはこのような考え方に対してである。懐疑論者はこの前提を逆手にとって、「クワス」も「プラス」と同じように過去の振る舞いに適合してしまうから、これから行う計算は「プラス」という関数に従うべきであるのと同じ程度に「クワス」という関数にも従うべきであると主張するのである。したがって、クリプキの言わんとしていることは、「規則に従う」ことが不可能であるということではなくて、我々が「規則にしたがっている」と感じる事態を「規則にしたがっている」という形で言い表すとパラドクスが起こるということである。換言すれば、「規則にしたがっていると感じる」ということを、我々の有限の経験から特定可能な「何か=規則」があり、それが我々の振る舞いを過去から未来にわたって規定している、という風に考えることはできないということである。
クリプキは彼の提示した懐疑論に対する二つの反論を取り上げて論駁している。第一の反論は、我々が「68+57」に対して「5」ではなく「125」と答えるのは、「+」によってクワスを意味するのではなくプラスを意味するような傾性(傾向性:dispositon)が我々にあるからだ、というものである[クリプキ1983:43]。第二の反論は、機械は足し算のような規則に従うことができ、勝手な数字をはじき出す選択の自由をもたない。規則に従っている時には人間もまた機械と同じで勝手な数字をはじき出すことはできない、というものである。
クリプキは二つの反論はおなじ形を取っていると論じる。なぜなら、第二の反論は「あたかも我々を機械として解釈しているかの如くに見えるが、その機械とは、与えられた入力に対し正しい出力を機械的に生むという傾性を有するものであるから」だ[クリプキ1983:62]。
二つの反論はクリプキが懐疑を投げかけた考え方を変形したものであると考えられる。我々が「規則に従っている」と感じる事態を、我々が「「何か=規則」に従っている」と言い表すことはできないというクリプキの懐疑論に対して、二つの反論はともに「「何か」に従っている『何か』が我々の中に存在し我々はそれに従っている」と主張するものである。その『何か』として「傾性」と「機械」が想定されているのである。
機械論者(第二の反論者)が想定している「機械」という概念こそ、「機械とはあらかじめ決められた規則に従って動くものである」という我々にとって自明な認識に埋め込まれているものである。クリプキはこの反論を、二つの理由から退けている。第一に、「機械は有限な対象であり、ただ有限個の数のみを入力として受け入れ、ただ有限個の数のみを出力として生み出す」[クリプキ1983:64]ものであるから、懐疑論者は足し算のときと同じように論理的に論駁できない突飛な主張をすることができる。第二に、現実の機械には常に誤作動の可能性があるから、機械がいつでも「68+57=125」と叩きだすとあらかじめ断言することはできない。このとき「機械」を「傾性」に置き換えるだけで、第一の主張も同様に退けられることになる。
*クリプキ、ソール A 1983『ウィトゲンシュタインのパラドックス-規則、私的言語、他人の心-』 黒崎宏訳 産業図書。
Posted at 08:53 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
先日、
上記タイトルで行われた京都人類学研究会における小田亮氏の講演のコメンテーターを
つとめさせていただいた。
コメントの内容について多分に舌足らずなところがあったのでここで補足しておきたい。
*講演内容については、講演原稿を加筆したものが小田亮氏のHPに掲載されています→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/nijuusyakai.html
すべて補足しようとするとキリがないので、一つだけ、本講演原稿の以下の箇所で示されている判断についてのコメントに対して補足したい。
近代社会においては、社会関係は、もはや、一人の人間が他の一人によって具体的に(比較不可能な複雑性を残したまま)理解されるというやり方にもとづいてはおらず、かなりの部分、書かれた資料やメディアを通しての間接的な再構成にもとづいているということだ。そのことによって、私たちの接触=コミュニケーションにまがいものの(非真正な)性格を付与していると、レヴィ=ストロースはいう。「ほんもの(真正性)」と「まがいもの(非真正性)」という用語は評判が良くないが、ここで言われている「まがいもの性=非真正性」は、「あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということ」による複雑さの縮減、いいかえれば規格化され単純化された一般性への還元、比較可能なものへの還元ということを意味しているにすぎない。その還元は「一般性-特殊性」という軸への還元と言いかえられる。非真正な社会は、「一般性-特殊性」の軸によって特徴づけられるが、それに対して、「普遍性-単独性」の軸は、「一人の人間が他の一人によって具体的に理解される」ことが必要条件となるゆえに、真正な社会においてのみ成立する。
注:加筆された原稿の方が分かりやすいので、そちらを引用した。
上記の文章の黒太字で記した個所について、私は以下のようなコメントを行った。
「個々人の生が代替不可能であり比較不可能であるような単独性をもつ、ということは他の人びととの対面的なコミュニケーションや関係性による小規模な社会関係(=「真正な社会」と小田が呼ぶもの)においてのみ可能である」という主張には納得できない。むしろ、個々人の代替可能性と代替不可能性を接合し調停する仕組みは近代社会(=非真正な社会)においても見出すことができるのではないだろうか。例えば、ルイ・デュモンは『個人主義論考』において、近代的な「個人」概念が、初期キリスト教に(およびインド社会に)みられる世俗外個人(社会関係の網の目から離脱した人々)の有様が社会関係の内部に組み込まれていくことで成立してきたと論じている。その過程において、個々人は神との直接的な関係を世俗内でも貫徹しうる存在として再概念化され、それによって世俗外個人と同質の有様が世俗内でも可能となる。こうして近代的個人は、「世俗内個人」として現れてきたのである。以上のデュモンの議論は、神(=普遍なるもの)との関係において「他の誰でもないこの私」の単独性が生起するという論理が、近代的個人という考え方の中核にあるということを示していると考えることができるのではないだろうか。で、あれば、『「普遍性-単独性」の軸は真正な社会においてのみ成立する』とは言えないのではないだろうか。
このコメントはなんとも舌足らずだった。コメントの意図を十分に伝えることができなかったからだ。その意図とは、もし「近代的個人」という概念もまた「普遍性-単独性」の軸を成立させるための一つの方法論であるのならば、多かれ少なかれ「近代的個人」概念に依拠するグローバル化や「ネオ・リベラルな文化」の世界的流通に対して、これらの運動は規格化され単純化された一般性へと人々の生を還元してしまうものである、と小田氏のように断定してしまうことは妥当性を欠くのではないだろうか、ということである。
ただし、このコメントはまだ論証されていない仮設に依拠したものであるから、もちろん批判ではない。ただ、論述の方向性があらかじめ論者が主張したい地点へと固定されてしまっているのではないかという違和感を感じたため、他の論理展開も可能なのではないかと指摘したかったのである。
この違和感の根っこにあるのは、そもそも「グローバリゼーションとネオリベラリズム的な支配に対抗」(原稿から抜粋)しなければならない、という倫理的判断を不動の前提として論理を展開し研究発表を行うことが学問的営為として妥当なものなのか、という疑問である。私自身は、グローバル化やネオリベラリズムを絶対に良いことだと絶対に悪いことだとも思わない。そして、人類学者として発言するならば、それが良いことなのか悪いことなのか(あるいは、それに迎合すべきか抵抗すべきか)という判断をする前に、「グローバリゼーションやネオリベラリズムがここまで展開してきたのは、なぜ/いかにしてなのか」という問いを、これらの運動もそれ自体が「人類」の集合的営為であるという前提にたって詳細に調べ考えるということがまずは大事なことなのではないかと私は思う。(少なくとも今回の講演における小田の論旨からは、グローバリゼーション自体は人類学的研究の対象とはなりえないものであり、グローバリゼーションに対抗しつつ真正や社会を維持し続ける人々の営みこそ人類学が研究すべきものである、という定言命法が発せられているように感じられ、そこまで言うのは言いすぎなのではないかと思う次第だ)。グローバリゼーションやネオリベラリズムを駆動する人々の営みもまた、(小田が参照する「上野村」という永遠の世界に住まう人々の営みと同じく)、人間の営みであることに変わりはない。少なくとも、グローバリゼーションやネオりべラリズムを駆動する人々の営みを彼ら自身の視点に肉薄して理解しようと試みることもなく、あたかも非人間的な力であるかのようにこれらの運動を把握する限り、それらの運動に対して倫理的な判断をなすことはできない、と私は考える。
私はまた、「この講演内容においては、倫理的な主張(こうであるべき)と論理的な分析(こうなっている)が絡み合ってしまっていて、読めば読むほどよくわからなくなってくる」ともコメントした。このコメントの意図も補足すると、<私は学問的研究が倫理的内容を含むことを否定するものではない。自分自身の研究を通じても、なんらかの倫理的な力を形にしあるいは生み出すことを目指しているものではある。しかしながら、学問が倫理的たりうるのは、論理と倫理をギリギリのところまで同時に追求し、両者の間の矛盾と軋轢に可能なかぎり耐えることによってのみ可能なのではないのか? 特定の倫理的判断をあらかじめ固定的に前提してしまえば、その判断を最初から共有する人にしか伝わらないのでは? それって、少なくとも自分には全然面白くないんですけど? 人類学って自分の拠って立つ前提を異なるものとの対峙を通じて絶えず掘り返し続ける営為じゃなかったの?>というものだった。
ただし、このコメントも学問的な批判というよりは、学問に対する考え方の違いという所に落ちてしまうようにも思える。少なくとも会場の雰囲気としては、この講演の内容が学問として基本的な部分でNGだという判断をしている人はあまりいなかったように感じた。
私自身も、この講演や「二重社会」をめぐる小田氏の研究が完全にNGだとは思っていない(他の学問領域では完全にNGだとみなされる可能性はあると思うが、そういう研究があってはならないとも思わない)。ただ、「二重社会」や「関係の代替不可能性」といった興味深い論点を提示され、いろいろと自分の考えにもひきつけて考察してみようとすると、スルリと議論がこちらの視野から抜けてしまうようにできているように感じ、どうももったいないというか残念というか、そんな印象を受け、そうなってしまう原因が倫理を固定してしまっていることにあると考えたので、以上のようなコメントになった。
学問的な批判となりうる論点については、色々と考えもあるのでいずれ時間ができればこのブログに書くかもしれない。いまのところ私の基本的な考えは、小田氏の議論において混同されているようにみえる「個の代替不可能性」という概念と「関係の代替不可能性」という概念(これについてはhttp://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/daitaihukanousei.htmlで詳しく展開されており、これを読むと本講演では不明瞭な点も結構わかるようになっている)は、きちんと区別されるべきものであり、むしろ個の「代替不可能性」と「代替可能性」の間を接続し調停するやり方の一つとして「関係の代替不可能性」と小田氏が呼ぶ局面が現れる、とするべきではないだろうか(そして、近代的個人主義は同じ働きをするもうひとつ別のやり方なのではないか)というものだ。
Posted at 07:14 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
『アンチ・オイディプス』をいまさらシツコク読書会で読んでいて考えたこと。
記号の質量性ないし身体性に注目することで文化・社会的実践を理解することの可能性を開いたということがポストモダン思想の良質の遺産の一つであり、
不完全ではあれそれを継承しているという点において、アクターネットワーク論を検討することの価値は未だあると個人的には思う(分析ツールとしてはあまり使いたくないけれども)。
Posted at 05:46 in 日々雑考 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
前回書いた記事、とくに後半について舌足らずな箇所があったので補足しておきたい。
村上春樹の用いる比喩表現の特徴を列挙した際、3番目に
③小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体において(あるいは小説のその部分において、ないし、主人公の心性やその場の雰囲気にとって)もつ意味に対して比喩表現(=「喩えるもの」)が用いられる。これは村上春樹だけでなく、多くの作家が頻繁に用いている手法だと思われる。
と書いた。
この、「小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩表現が用いられる」という言い方はこれだけの文章では分かりにくいと思うので、以下で詳述する。
まず、上記の文章では以下の二つの比喩表現を区別して対置している。
(A)通常の比喩表現:小説内のある要素に対して個別に比喩をかける。
(B)村上に特徴的な比喩表現:小説内のある要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩をかける。
ここで、二つの表現形式に妥当すると思われる具体例を挙げよう。
Ex(A)
「外に目をやると、窓のサッシュの向こうは気の滅入りそうな曇天である。年代物のエアコンがその老体に鞭打って必死に温かい空気を送っているが、足元から這い上がってくる冷気の方が優勢だ。今日も気温は上がりそうにない」(恩田陸『ネバーランド』55頁)
ここでは、冬の寒い朝に壊れかかった古いエアコンが動いているという情景が、「その老体に鞭打って必死に温かい空気を送っている」という比喩表現で描かれている。
この表現を書き手が作成しようとするとき、次のようなステップが踏まれるだろう。
1書きたい情景を思いつく
2その情景に付随する(させたい)印象を想起する
3その印象を的確に読者へと伝えられそうな比喩表現を考案し、それを含む情景描写を行う。
もちろん、この文章の作者=恩田陸が実際にこのステップを踏んだかどうかは分からない。だが、上記の表現は、このステップを踏んで書くことのできる範囲内の表現である。もちろん、表現の巧拙はあるし、恩田陸の文章は情景描写としては過不足なく洗練されたものではあるが、私たちが日常生活において比喩を用いる時も、多くは同様のステップを踏んでいる。例えば、旅行先で出会った風景についての感動を帰ってから友人に伝える時、素晴らしく美味しい料理の「美味しさ」を他人に伝えようとするとき、私たちは自らの印象をなんとか伝えようとして比喩を用いる。ただし、作家は自分の経験したことのみを書くわけではないし、経験したことであっても自らの印象とは異なるものを読者に伝えようとすることも少なくない。つまり、読者に特定の印象が伝わるように文を操作するという点で、作家は旅行の感想を喋る人間とは異なるわけだが、その目的がある情景を特定の印象を付随させながら描きだすことにあるという点で両者に変わりはない。
これに対して、村上作品に特徴的ないくつかの比喩表現はこうした方法では、ほとんど思いつくことができないものとなっている。例えば、
Ex(B)
僕らがバスに戻ったときには、もう乗客は全員座席についていて、バスは一刻も早く出発しようと待ちかまえている。運転手はきつい目をした若い男だ。バスの運転手というよりは水門の管理人みたいに見える。彼は避難がましい視線を、時間に遅れてきた僕と彼女に向ける(『海辺のカフカ』48頁)
あなたには、バスの運転手が「水門の管理人みたいに」見えたという経験があるだろうか?そもそも「水門の管理人」を見た経験のある人からして極めて少数だろう。つまり、この文章では、「バスの運転手が自分を見ている」という状況に付随する印象が
[以下工事中・・・]
Posted at 19:22 in 日々雑考 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
<数多くの身体に宿る魂:479-483>
以上で得られた、身体が重要な差異化の担い手であるという知見は、アメリカ先住民の民族学における伝統的な問いのいくつかに以下のような新たな洞察を与えるものとなる。
◎アマゾニア社会における身体の重要性
身体が差異化する(=違いを生み出す)ものだという知見は、個々人のアイデンティティを示すカテゴリーがしばしば身体的な語彙に結びつくという現象の理解を容易にする。
食事や料理の管理が象徴的な重要性を持つという現象は、アマゾニア全域に見られる。
(Ex:神話における「生のものと火にかけたもの」(L=S)、食習慣に基づく基本的分類、食事を共にすることが持つ存在論的生産性、捕食者―被捕食者間の相関関係、etc)
:これらの現象の遍在が示すのは、身体を構成する一連のプロセスや慣習のセットこそが、同一性と差異が生み出される場となっているということである。
:同じことは、アイデンティティの定義や社会的価値の伝達における、記号としての身体の使用についても言える。そこでは――Turnerが指摘したように――人間の身体が典型的な社会的対象となっている。
↓しかしながら↓
身体の社会的構築は、自然的事物を文化の支配下に置くためではなく、人間の身体を一つの自然(=複数の自然のうち他とは区別されるその身体固有の自然)として生み出すためにある。身体の個別化により、他の人間集団や自然種からの差異化が図られる。
↓このように↓
先住民の思考において、身体とは、与えられるものではなく作られるものである。
:差異化をもたらすパースペクティブの起点として身体は、それを適切に表現しうるように個別化されなければならない。主体(=文化)が自らを表出するための基礎的な装置が身体(=自然)なのであり、身体が個別化されることで初めて主体は具体化される。
↓したがって↓
<身体(自然)/魂(文化)>の二分法は、両者の非連続性を含意しない。情動や記憶や視点の発生源たる身体において魂は具体化される。これに対して、具体的な身体のうちにある魂と、抽象的で形式的な主体性としての「真の魂」の間で区別がなされる
◎メタモルフォーゼ
身体がパフォーマティブな(行為を通じて作られる)ものであるという性質は、
先住民のコスモロジーにおける異種間のメタモルフォーゼという主題と関連している。
:西洋的思考では、差異を生み出す起点は精神である。そのため、他の精神とのコミュニケーションの不可能性(=独我論)や精神的な変容の不可能性がつねに問題となる。
↓したがって↓
先住民におけるメタモルフォーゼ(身体の変容による境界の越境)は、
西洋における「魂の会話」(魂の変容による境界の越境、テレパシー)の対応物である。
:また、先住民のカニバリズム(食べた動物が実は人間ではないかという懐疑として表出される、人間と動物の差異が崩壊することへの恐れ)は、西洋の独我論(異なる精神を持つゆえに他者が私と同じ種類のものであると言えなくなることへの恐れ)に対応する。
:独我論は、自然としての身体の類似性がはたして魂の共同性を保障するのかという不安に結びつき、カニバリズムは、魂の類似性が身体的な差異に打ち勝つのではという不安に結びつく。
↓また↓
メタモルフォーゼという概念は、動物の「装いclothing」という考え方と結びついている。
:この考え方は、身体とは見せかけの虚偽であり本質たる魂こそリアルだとする西洋的な思考ではなく、身体は廃棄され交換され入れ替えることができるということに依拠している。「装い」(シャーマンが用いる動物の仮面等)は、人間性を動物的外見で隠す装飾ではなく、異なる身体の力能を取り込みアイデンティティを変容させる道具なのである。
◎生者と死者の非連続性
➠先住民の社会において生者と死者が根本的に区別されるのは、魂によってではなく身体によってである。
:視点の源としての身体を失うことで、死者は生きている人間とは異なる存在となる。
精霊が人間身体からの分離によって定義されるのに対して、死者は動物の身体へと引き寄せられる。死ぬことは動物へと変容することだとみなされる。アニミズムは、人間と動物の間に(共に主体であるという)連続性を設定する。対して、パースペクティヴィズムは、生きている人間と死んだ人間のあいだの非連続性を設定する。それは、個別性を横断する魂の単一性に宇宙論的な「機能」を与えるものでもある。
↓ここに↓
「超自然」という概念を再考する余地が生まれる。
:社会生活を規定する間主観的関係性とも、動物たちの身体との「間客体的」関係とも異なる関係性を指す。換言すれば再帰的な代名詞「I」からなる文化の領域と、非人格的な「it/they」からなる自然の領域の間に、二人称「you」からなる領域=「超自然」が存在する。
:ある主体が異なる宇宙論的視点から把握されたとき、彼はその視点に立つ主体にとって「you」となる。超自然とは「主体としての他者」が取る形式である。
(Ex.典型的な「超自然的」状況:ある人が森で誰かと出くわす。最初それは動物や人間に見えるが、精霊ないし死者としての本性を現し、話しかけてくる。この対話は話しかけられた者を発話者と同種の存在へと変容させ、しばしば彼を死に至らしめる。
:超自然的存在からの呼び掛けに答えることは、相手が自分を二人称(you)で把握することを受け入れ、その存在が人間であることを認めることによって、自らを被捕食者=動物へと変容させてしまう効果を持つ。唯一シャーマンだけが、動物を二人称で呼びかけても動物に二人称で呼びかけられても人間主体としての地位を失わない。)
◎消失点
考察を締めくくる上で付け加えたいのは、
アメリカ先住民の遠近法における「消失点」として神話が機能しているということ。
*消失点:遠近法において、平面状で遠近感を表現するために用いられる無限遠点。
つまり、神話において、異なる視点の間の差異は無効となるのである。
:そこでは、全ての種が――シャーマンと同じく――自身にとっての自らの姿で他者の前に現れる。神話が語るのは、「身体と名前」「魂と情動」「私と他者」等が相互に浸透しあう前主体的で前客観的な状況の有様であり、より正確にはこうした状況の終焉である。
Posted at 23:57 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
<多自然主義:477-479>
以上の議論を経て、先住民のパースペクティヴィズムへの理解として人間中心主義的な比喩モデルが廃棄された代わりに、相対主義が採用されたように見えるかもしれない。
=パースペクティヴィズムとは、同一の世界に対する表象の複数性を主張するものである、という結論に我々の議論は落ち着くように見えるかもしれない。
↓だが↓
民族誌データが示唆しているパースペクティヴィズムの実態はその逆である。
:全ての存在者は世界を同じ仕方で見る=表象する。変化するのは彼らが眺める世界の方であるとされる(Ex:人間にとっての血=ジャガーにとっては玉蜀黍のビール)。
:表象的・現象学的な単一性が、根本的な物質的多様性に対して適用される(対して、文化相対主義では、主観的で局所的であるがゆえに多様な表象が、その外部にある単一の自然を捉えるという図式が前提される)。単一の「文化」と複数の「自然」がある。
:パースペクティブは、表象ではない。表象は精神や思考の属性であり、視点の違いを生み出すのは――全ての種において同一な魂ではなく――諸身体の個別性である。
↓したがって↓
非人間が人間(person)であり魂をもつにも関わらず人間から区別されるものは、
彼らの身体が我々の身体とは異なるからである。
:この差異は、生理学的な差異ではなく、感情や特性や能力の差異である。つまり、ここで言う「身体」とは、物質的な実体ではなく、個々の存在者のハビトゥスを構成する存在の仕方および情動の集合体(何を食べ、いかにコミュニケートし、どこに住み、どの程度の規模の集団で暮らすか等)である。この次元が、魂の形式的な主体性と各有機体の物質的実体のあいだを媒介するのである。
:だが、「身体」の間の差異はそれをまなざす他者の視点があってはじめて理解される。
「身体」とは、他者性を理解する方法なのである。我々がふつう動物を人間とみなさないのは、我々自身の身体(とそれによって発生する視点)が彼らのそれと異なるからだ。
↓したがって↓
「文化」が主体の再帰的なパースペクティブ(=魂の概念を通じて客体化されるもの=代名詞「I」に示される自己言及性)であるなら、「自然」とは主体が他の身体-情動に対してもつ視点である。それは身体としての形をとる「他なるもの」であり、主体にとっての客体(=「It」)である。先住民にとって差異を生み出すのは身体なのである。
◎例証:前述したL=Sが参照した事例では、スペイン人が現地民が(自分たちと同じ)魂を持っているか否かを調べようとしたのに対して、現地民は、白人たちが自分たちと同じ種類の身体を持っている否かを調べようとした。現地民が身体を持っていることを白人は疑わなかったのに対して、現地民は白人が魂を持っていることを疑わなかった。彼らが知ろうとしたのは、その魂に結びついた身体が彼ら自身の情動と同じタイプのものを発するものであるかどうかであった。
先住民のエスノセントリズムが、他者の魂は同じ身体をもつのかという疑いに結びつくのに対して、西洋のそれは、他者の身体は同じ魂を持つのかという疑いに結びつく。
:西洋的思考における人間の地位は本質的に両義的である。一方で、人間は動物種のひとつでしかなく、他方で人間性には諸動物を包含する倫理的な地位が与えられる。二つの見解は、「人間本性human nature」なる問題含みの概念のうちに並存している。
↓換言すれば↓
西洋の思考では、動物と人間の間に物理的連続性と形而上学非連続性が設定される。
:前者の連続性は自然科学の対象としての人間を、後者の非連続性は人文学の対象としての人間を生み出してきた。魂ないし精神(Mind)は強力な差異化の指標であり、それによって人間は動物の上位に置かれ、諸文化は区別され、個々人の唯一無二性が担保される。身体は主要な統合の指標であり、それによって我々は普遍的な実体(DNA等)に結び付けられる。
↓対して↓
アメリカ先住民は、種々の存在者の間に形而上学的連続性と物理的非連続性を設定する。
:前者の連続性がアニミズムを、後者の非連続性がパースペクティヴィズムを生み出す。
(主体の再帰性としての)魂は統合を担い、(行為する情動としての)身体は差異化を担う。
Posted at 07:23 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
<アニミズム:472-474>
本稿で言う「パースペクティヴィズム」は、
Descolaによる「アニミズム」の再定義への回帰に見えるかもしれない。
:彼によれば自然を客体する仕方には以下の三つのモードがある。
①トーテミズム:自然種間の差異は社会的差異のモデルとして用いられる。自然と文化の関係は隠喩的であり、二つの系列(内/間)の非連続性によって構成される。
②アニミズム:社会生活の基本カテゴリが人間と自然種の関係を組織する。人間の特性・社会性が自然界の存在へと帰せられ、自然と文化の間に社会的連続性が定められる。
③自然主義(西洋のコスモロジーが典型):<必然性の領域としての自然/自発性の領域としての文化>という存在論的二分に基づき、両者は換喩的非連続により分割される。
そしてアニミズムは、動物が自然の客体化と社会科の戦略的拠点となる社会に特徴的なものとされる。
↓以上のDescolaの主張からいくぶん離れて↓
ここで私が論じたいのは「アニミズム」と「自然主義」の対比についてである。
・アニミズムの前提:人間(社会)と非人間(自然)の関係自体が社会的世界に含まれる。
<社会=無徴、自然=有徴>*
・自然主義の前提:社会と自然の関係自体が自然の中に含まれる。
<自然=無徴、社会=有徴>*
*[Man/Woman]におけるMan(男/人間)のように、一項がもう一つの項と対立すると同時に二項を包含する共通項として機能する時、それを無徴、もう一項を有徴と呼ぶ。
:西洋の自然主義では、自然/社会のインターフェイスは自然的。人間は生物学的・物理学的な法則性に支配される点で他の存在者と同質の有機体である。一方、主体間の制度化された関係としての社会関係は、人間社会にのみ存在するとされる。が、自然(法則)の普遍性を認める限り、人間と社会的世界の地位は不安定なものとならざるをえない。
↓その結果↓
➠西洋の思考は、自然主義的一元論(近年では「社会生物学」)と<社会/文化>の二元論(近年では「文化主義」)の間を揺れ動いてきた。後者は、最終的参照点としての自然概念
を強化するものであり、自然/超自然という概念対立の末裔に他ならない。文化とは「魂(Sprit)」の近代的呼称なのである。対して、アニミズムにおいて不安定となるのは自然の方であり、普遍なる社会性から自然を差異化することが問題となる(と言いたくなる)。
↓しかしながら↓
<アニミズム=人間界の特性・差異の非人間世界への投影>という定義は妥当だろうか。
:(Ingoldによれば、)こうした比喩的投影モデルは、結局のところ「本当の自然」と「文化的に構築された自然」を区別することで、自然/文化の二元論に帰着するものである。
(=西洋の思考における自然-文化の換喩的な非連続性を未開に隠喩的に投影したもの)
↓問うべき論点は↓
①アニミズムとは人間的-社会的世界に属するカテゴリを用いた非人間的領域の概念化である、のだろうか? (次節)
②もしアニミズムが人間の認知・感覚能力および主体性を動物に帰することであるならば、人間と動物の違いとはつまるところ何だろうか? (次節)
③アニミズムによる自然の客体化が[自然/文化]の二分法によっては捉えきれないものであるなら、この二分法の中心性を示唆する豊富な兆候が南米のコスモロジーに存在することをいかに説明すればよいだろうか? (次次節)
<エスノセントリズム:474-477>
「(「未開人」にとって)人間性の適用は集団の境界上で停止する」(L=S)。
:この見解は、多くの自民族名が「本当の人間」を意味するということが、異邦人を人間ではないものと定義することを含意するということによって例証されてきた。
エスノセントリズムは西洋の専売特許ではなく、人間の集団生活に備わる自然な態度なのである。
Ex「アメリカ大陸発見後数年間、スペインの調査団は現地民が魂を持っているか否かを調べようとし、現地民は捕えた白人達の身体が堕落したものか否かを調べていた」(L=S)。
:先住民たちもヨーロッパ人も自分たちが属する集団のみが人間性を持つと考えていたのであり、異邦人を動物や精霊から人間を区別する境界の外部に位置づけていたのである。
このように、L=Sの時代には、未開人が我々と同じ区別(自然/文化、人間/動物など)を行っていることを示すことで、彼らの人間性を立証することが目指されていた。
↓だが↓
現在、新たなアニミズム(理解)は、近代的思考の傲慢に抗して、主体と客体ないし人間と非人間の普遍的な混交体=原始社会ないしポストモダンの「ハイブリッド」(Latour)を認めるものとして現れている。
:「未開人はちゃんと人間と動物を区別しており、だから人間的なのだ」とかつてのように主張する代わりに、今や我々は、未開人が決して行わない仕方で人間と動物を対立させる我々がいかに非人間的であるかを認めなければならない。
↓しかし↓
先住民の思考には、自らの集団以外を人間と認めないエスノセントリズムと他の自然種にも人間性を認めるアニミズムという矛盾する見解が同時に当てはまるようにみえる。
:だが、二つの見解は同じ現象が異なる視角から理解されたものに他ならない。
・「人間human being」と訳されてきた先住民の言葉は、自然種としての人間を指すものではない。それらは個体の社会的な状態とりわけ、主体としての地位を意味するものであり、名詞としてよりも代名詞(我々=人間)として機能する。だから、それらの言葉は発話主体の親族、彼の属する集団、全ての人間、主体性を持つ全ての存在、のいずれを指すこともできる。
↓したがって↓
➠動物や精霊は人間であると言うことは、彼らに主体としての地位を構成する意識・意図やエージェンシーを持つ力を認めるということである。
:「魂」(ないし「精神」)として客体化される。魂を持つものは全て主体であり、固有の視点(point of view)を持つことができる。視点を持つものは主体である。あるいは、視点が存在するところにはどこにでも主体たる位置が存在する。
:我々の構築主義的認識論を要約するソシュール派の定式「視点が客体を作る」に対して、先住民のパースペクティヴィズムにおいては「視点が主体を作る」のである。
↓まとめると↓
動物が主体とされるのは、彼らが人間に偽装されているからではない。
動物たちは潜在的に主体であるからこそ、人間なのである。
:アニミズムとは、人間の性質を動物に投影する営為ではなく、人間も動物も自らに対して持っている再帰的な関係が論理的に等値であることを表現するものである。人間性とは主体の一般的な形式を指す名であるからこそ、それは人間と動物の共通の基盤となるのである。
Posted at 07:18 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)