【読書ノート】
Practice Theory
Joseph Rouse 2007
In Stephen P. Turner and Mark W. Risjord. (eds.)
Philosophy of anthropology and sociology Elsevier pp: 639-681.
➠20世紀末の数十年間、「実践」(practices)は、人類学や社会学ないし歴史学の関連領域
などにおいて次第に重要な主題となってきた。
↓しかし↓
➠実践概念が広範な潮流(社会科学、社会理論、哲学におよぶ学問領域)において用いられてきたことは、この概念が理論的一貫性を持たないことを示しているようにも見える。
:S.Turnerは、実践概念は諸学の根本的問題を解決するかのような装いのもとで広まったが、その結果この概念が表面的で空虚なものであることが明らかになったと論じる。
↓対して↓
➠本稿では、一章で実践論の主要な理論的根拠と方法論を検討しながらそれらの理論的一貫性を示し、二章で実践論が直面している主要な理論的課題について検討し、実践をめぐる諸概念が社会理論/哲学にとって依然として重要な学問的資源であることを示す。
1章: 実践論(Practice Theory)とは何か
以下、社会理論・社会科学・哲学における「実践」をめぐる主な6つの議論を検討する。
1.1 実践、規則、規範
➠実践論の重要な哲学的背景は、「規則に従うこと(rule-following)」をめぐる後期ウィトゲンシュタインの考察と、ハイデガーによる「理解」や「解釈」についての論述であろう。彼らは、「規則」「規範」「規約」「意味」等を強調しながら社会生活や人間理性を説明しようとする考え方に対して根本的な議論を行った。
:社会/文化は、自然法則に規定された物理的/生物学的過程ではなく、有意味な振る舞いに関連する規則や規範によって規定され構成される活動や制度の領域だ、という見解。↑本稿全体をつうじてregulism(規則主義?)と呼ばれる考え方の社会科学版。
:こうした考え方の源泉は、カントが唱えた[自然法則に従う振る舞い(behavior)/法=規範に従う行為(action)]の二分法にある。彼にとって、規範(norm)とは個々人が自らに課す規則(rule)に他ならなかった。人間的な思考と行為の規範性に対するこうした考え方を批判したことが、ウィトゲンシュタインとハイデガーの実践論に対する寄与の由来である。
○ウィトゲンシュタイン:ある規則をめぐっては、逸脱的な仕方でそれに従いうる可能性が常に開かれている。規則を解釈する仕方を特定したとしても、その解釈自体が新たな規則となってそれに対する逸脱的解釈の可能性が再び生じる(→補足資料参照)。
規則は行為の仕方を決定できない。何故ならいかなる行為の仕方も(なんらかの解釈によって)その規則と一致させられ得るからだ。[…]規則を把握するやりかたはあるが、それは規則の解釈ではなく、規則のその都度の適応において我々が「規則に従う」と言い、「規則に反する」と言うことの中に現れるものである。 『哲学的探求』第201節
○ハイデガー:解釈は、それがなされる状況に対してあらかじめなされた理解を背景としてのみ可能である。例えば、ハンマーで釘を打つ時には、大工仕事や道具に対する全般的な理解、当該の行為を構成する一連の過程についての理解、その行為によって何が達成されうるかについての理解があって初めて、この行為の意味を適切に解釈することができる。これらの先行する実践的把握があって初めて、ある行為が「ハンマーで釘を打つこと」を意味しうるのである。
➠「規則は自律的である」ないし「意味は明示的に言明される」といった考え方に対する両者のこうした批判は、社会科学の哲学に大きな影響を与え、「人間が何事かを理解するということ(=知性や思考能力)には我々がなすことのうちに表される次元があり、この次元は当の理解についての明示的な解釈よりも根本的なものである」という見解に帰結した。
:両者が提示したような種類の規則の遂行や背景的な理解がなされる場を示すものとして、「実践」という概念は広く社会理論に導入されてきた。そして実践論者たちは、ウィトゲンシュタインの「規則に従うことは『生活の形式における一致』から導出される」という見解や、ハイデガーの「あらゆる人間存在の最も基本的な言明は、個人的な自己決定によってではなく、その当人がなすこと(what one does)に由来する」といった見解をより発展させんとしてきた。
↓こうして↓
➠実践論は、①私的で精神的な事象ではなく公的で観察可能な行為の遂行(パフォーマンス)に注目し(行動主義との類似点)、②それらのパフォーマンスを「厚く」記述し把握するよう試みる(行動主義との相違点)とともに、③外的な活動の只中において規則や規範や概念が有意味なものとして具体化=身体化(embody)されうると主張してきた。
1.2 社会構造ないし文化を個人的主体と調和させること
➠実践論はまた、<個人的主体>と<社会/文化的構造>のどちらが分析において優先されるべきかという長年繰り返されてきた論争を媒介することを主題としてきた。
:社会科学は社会的な全体(制度、文化、社会構造)を解明すべきとするwholismと、
そのような全体など何処にあるのか、存在するのは個々人の活動のみではないかという反wholismの対立。
↓対して↓
➠実践論は両方の主張の重要性を受け入れうる。
:ある次元において実践は個々人の行為遂行(performance)により構成されるものであるが、
行為が理解可能なものとなるのは他の諸行為が構成する背景との関連においてのみ。社会
的/文化的構造は、実践とその伝達により常に再生産されるものとして動的に把握される。
↓しかし↓
➠ここで根本的に問題になるのが、社会的な実践のパターンはいかにして個々の実践者の行為を規定し構成しうるのかということである(Turner:この問いは回答不可能)。
:Taylorによればこの問いに対する戦略は主に二つで、「ルールに従うことは一つの実践である」というウィトゲンシュタインの主張に対する以下の二つの解釈に対応している。
①規則に従うことの背景となる諸要素の結合は、正当化によってではなく事実上のつながりとして存在する。(Ex. Kripke:模倣や訓練や罰則をつうじて規則が伝達される)
②規則に従うことの背景には、通常は言明されないが規則への挑戦がなされた時には規則に従うことの理由や説明を定式化することができるような具体化された理解が存在する。
↓しかし↓
➠前者の見解を十全に論証しようとすれば、規則のあらゆる因果的基盤を明確に示すという不可能に思われる課題を背負いこむことになるし、後者の見解を十全に論証しようとすればカント的な規則論にまで退行してしまい、実践論本来の洞察を失う危険性が高い。
↓とはいえ↓
➠両者のアプローチを結合する方法は存在する。
:例えば言語習得の局面を考えると、言語的記号を差異化する能力なしに言語を習得することはできないが、この能力とそれを再生産する傾向性は模倣によって生み出される。言語を学ぶものが話者の意味ある発話をその意味を知らないまま模倣すること、模倣された発話を既に意味あるものであるかのように話者が適切に反応することによって始めて言語習得は可能になる(他の多くの実践論者、Dreyfus, Foucault, Scatzki, Brandom等の議論も二つのアプローチを結合している)。
1.3 身体技法と規律
➠人間の主体性と社会的相互作用を身体的なパフォーマンスとして捉える見方もまた、実
践論の主題となってきた。
:自然界の因果的影響下にあると同時に自己志向的に振舞い表現するものでもある身体に注目することで、社会生活の因果的で規範的な次元と人間的主体性の個人的で自発的な特徴を調停することが目指されてきた。そこでは以下の二つの極端な見解は回避される。
・客観的に記述可能で因果的に規定される自然物としての身体。
・意識的で反省的な思考に基づく行為の透明な媒介としての身体。
両者のどちらでもないオルタナティブな考え方が様々な論者によって提示されてきた↓
・M.Polanyi:身体は「実践的知識」の場である。それは因果によって規定されるものでもなく、意識的に言明されうる理性的行為でもない。
・H.Dreyfus:①個々の指令は身体において実践的に統合される。事物とは異なり、身体の各部は全体として共に動き、熟練した運動のなかで一つの結合体として働く。②身体的なパフォーマンスは、意図的な仲介物(意味や表象)の介在なしに、対象に対して志向(意図)される。知覚と行為、身体的受動性と自発性といった明確な区別は存在しない。③身体技法はフレキシブルなものであり、変化する状況に対して柔軟な反応を絶えず生み出す。熟練した身体技法は、同一の課題に対峙しても状況に応じた異なるパフォーマンスを繰り出すことができる。④ただ、非熟練者の身体的振る舞いは明確な規則に従う。
↓以上のような↓
➠身体的な主体性や意図(志向)性への注目は、社会的規範や権力が身体の規律化を通じて具体化され組織されるという実践論においてしばしば強調される論点と矛盾するように見えるが、そうではない。
:Foucaltによれば「権力」はその重要な要素として「自由」を含む。「権力が行使されるのは、ただ自由な主体に対してだけであり、主体が自由であるかぎりにおいてである。[・・・]自由な主体による抵抗がなければ権力は物理的な決定と等しくなってしまう)」(『ミシェル・フーコー構造主義と解釈学を超えて』収の論文「主体と権力」から抜粋)。
社会的実践は、それとの関連において人間が自分自身とその行為を理解するような、意味や可能性や事物を組織化するのである。Brandomの的確な定式化によれば、
「個々人における自己の育成は、一連の社会的実践に伴う新たな規律に自らを服従させることによって自由を遂行し拡張することのうちに構成される」のである。
1.4 言語と暗黙知
➠実践論における身体的な技法や傾向性への注目は、社会生活においては言語が統合的な役割を果たすという見解と容易に結びつかないという問題をはらんでいる。多くの実践論者はこの問題を乗り越えることを重視するが、相互に異なる様々な見解が提示されている。
:これらの見解は、しかしながら以下の同一の主張に対する異なる解釈に由来している。
「社会的エージェントが自らの行為を理解し、他者と相互作用することは、明示的に言明された命題や規則によって把握することはできない」
↓こうした↓
➠社会生活における非明示的な「暗黙」の実践の一部として言語を捉えようとした時に、広範に広まったのが、ある共同体や文化において「共有された前提」という考え方である。
Ex1「自らの行為を正当化する何かをもとめて大地を掘り進めても、地中の岩盤に突き当たるだけだ」(ウィトゲンシュタイン)。
Ex2社会的実践の理解可能性を支えているのは共有された前提である。その前提を解釈して明示化すれば新たな前提が足元に出現し、解釈が止むことはない(解釈学的見解)。
:だが、こうした主張は異なる実践を行う人々の間の「共約不可能性」(Kuhn)を帰結するに至って社会科学的分析を不可能なものとする極端な認識相対主義に転化しやすい。
暗黙の前提によって実践が構成されるという考え方は、その「前提」なるものを、概念体系としての言語(ラング)と同等のものとして扱うような極端な見解に至ってしまう。
↓対して↓
➠具体的な言語活動自体を社会的実践として捉える以下のような議論がなされてきた。
①言語行為論:多くの言語的活動が言語使用を通じた行為の遂行に他ならないと論じる。
②会話分析・エスノメソドロジー:日常的な言語的実践を通じた社会的営為に注目。
↑ただし、以上二つの潮流は言語の語用論的側面に限定して実践論的分析を行ったものであり、言語の意味に関しては言語的実践に先行して決定されていることを自明としていた。
③Quine,Davidson,Brandom:言葉使用とは、前もって獲得された体系的な構造によって可能になるものではない。それは、自らの言語的行為を合理的に解釈する活動であり(Davidson)、実践に参与する他者との関係において課せられる言語使用上の義務を個々人が記録する「Denotic scorekeeping」によって成り立つものである(Brandom)。
④Foucault:言説的な実践(discursive practice)を通じた言説の編成によって知の対象が構成される。非言語的な諸要素もまた、言説的編成と調和しながら実践において編成され、特定のかたちで権力と知の新たな形式を構成していく。
1.5 社会科学と社会生活
➠社会的実践の非明示的な次元への注目は、実践論がもう一つの主題に向かう契機となる。
:「前提」や「規範」や「身体技法」と呼ばれる社会的実践の暗黙の背景となっているものと、そうした背景を明示化せんとする社会科学や社会理論の試みはどう関係しうるのか。
↓大きく分けて3つの立場がある↓
①科学は客観的でなければならず、利害関心から離れ、純理論的に決定された概念を用いて現象を予測するものである(Bourdieu, MacIntyre, Polanyi, Dreyfus)。
②社会を理論的に説明しようとすること自体が、社会的実践の「自己解釈的」な性格と連続した営みである(解釈学実践論、エスノメソドロジー、フーコー的系譜学)。
③科学的探求自体が一つの実践であり、その限りにおいて社会学的な研究の対象となる(科学社会学、STS、実験室人類学etc)。
→社会科学的探求の認識論的・政治的・修辞的な目的自体が反省的論争の的になる
Ex.人類学における「文化を表象すること」や、科学研究における「再帰性」の問題化。
1.6 実践と社会的なるものの自律
➠実践論は、社会的コンテクストを個人的主体の思考や行為に還元するあらゆる方法論に抵抗する。Ex.社会生活の心理学的理解(「Folk psychology」)において信念・意図・欲望・知覚と、心理的状況に関わらない「命題的態度」が区別されることに対する批判(Brandom:両者はともに公的な言説的実践を通じて生じる規範的状況に他ならない)。
2章: 実践論をめぐる概念的諸問題
2.1 規範的regulismに対する応答としての実践概念
➠実践論が直面する第一の論点は、実践を強調することによって正当化と規範性に関わる問題が解決しうるかのという点である。この難点を乗り越えるために広く用いられるのが「Regularism」(規則性主義?)的な考え方である。
:規則とは結局のところ実践者がなすことのうちに示される規則性に他ならない。
↓だが↓
➠実践についてのRegularism的な考え方では、Brandomが“gerrymandering problem”と呼んだ困難にぶつかってしまう。
:一連の行為遂行は多くの規則性と同一視できてしまう。規則を都合よく変えてごまかすことは常に可能である。Regularismでは「規則に従う」ことに関してRegulismが直面した困難を乗り越えられないなのである。
↓対して↓
➠「実践についての規範的な考え方」(normative conception of practices)は、実践を規則にも規則性にも還元せず、実践を構成する種々のパフォーマンスの間の相互作用におけるパターンとして捉える。 :相互に規範的な説明可能性を表す。
個々のパフォーマンスは、それが構成する実践において適切/不適切なものとして説明可能である限りにおいて実践に所属する。伝統的な哲学的議論は、規範性をそれ自体は規範的でない要素(価値、規則性、社会的必要etc)に還元することによって説明しようとしてきた。これに対して、実践の規範的な考え方は、規範性を還元不可能なものであり、かつ説明可能なものとして捉える。この見解の重要な側面は以下の三つである。
①実践を構成するパフォーマンスが互いに互いを支える仕方が、実践を制約している。
:一つのパフォーマンスは他のパフォーマンスに対する何らかの反応(訂正、罰、模倣、翻訳etc)を表している。こうした、実践の諸単位における相互作用が実践を形成するという説明は言説的実践に関して広くなされている(ex.Latour&Woolgar “Laboratory life”)
種々のパフォーマンスは、それらが共有する意味論的内容や振る舞いの類似性によってではなく、相互作用の複合的なネットワークによって実践に統合されるのである。
↓だが、この段階における実践はまだ規範的なものではなく、まだ実践とは呼べない↓
② パフォーマンス間の相互作用のパターンは、問題とされ賭けられるものを産出する。(Ex:ユダヤ主義の実践においては「ユダヤ人であるとは何であるか」が問題化される)
:実践において問題とされ賭けられるものこそ、実践の通時性と規範的な説明可能性を示すものに他ならない。実践は本質的に論争的な何かに向かって自らを指し示すのである。
規範性についての哲学的議論とは異なり、問題化され賭けられるものをあらかじめ決定するような審級は想定されない。それらは常に非確定的なものである。
③こうした非決定性は、言説的実践において問題化される意味論的・認識論的規範にも適用される。「真理」、「客観性」、「主張を正当化する基準」等を決定することはできない。
・「真理というものが、我々が何を/いつ言うかに関わる規範的な問題であり、何が言われるべきかについての争いがあるのであれば、真理は解き放たれる。真理とは既にどこかにあって発見されるのを待っているものだと考えるべきではないのである。」(Wheller)
↓このように↓
➠実践の規範性とは、それを構成する種々のパフォーマンスの相互的な説明可能性において、そこで問題化され賭けられるもの―その最終的な解決は常に先延ばされる―に対して表される。決定を担う最終的な審級を拒否するこの考え方によって、社会理論と社会生活を連続的な関係において捉えることも可能になる。
:実践を構成するパフォーマンスは、すでにして、実践において何が問題であり何が賭けられているのかについての一つの解釈を表現するものである(社会生活→社会理論)。また、進行中の実践の外に出ようとする努力は、その実践の未来の姿を形成することに寄与するものとして当の実践に組み込まれる(社会理論→社会生活)。
2.2 言語、前提、言説的実践
➠社会的実践をめぐる理解や相互作用は言語によって表明されうる命題や規則によっては把握できないと論じてきた実践論者たちの主張は、現実的なものは真なる命題によって『汲み尽くされる』とする合理論の第一のドグマに対する拒否としてなされてきた。
↓だが↓
➠本質的に言明不可能で暗黙のうちになされるものとして身体的な技法や傾性を特徴づけることで、言語や言語的な表現可能性の限界をどう特定するのかが不明瞭になった。
:これらの実践論者は、自らのregulism批判の対象から言語を免除し、言語的な意味を、現実世界を超えたところにある領域(フレーゲにおける「意義」、フッサールにおける「超越論的意識」、カルナップにおける「論理形式」など)に追いやることによってのみ、表現可能なものと本質的に暗黙なもの(The tacit)の間に境界を引くことができたのである。
↓だが↓
➠言説的実践と非言説的実践の間に境界を引くことはできない。言説的実践が単に言葉を用いる以上の行為を含むからだけでなく、言明が我々のなすあらゆることを変容させるからこそ、言語的実践と非言語的実践を切り離すことはできない。最良の実践論は、自律的に表象を管理する領域として言語を扱う代わりに、人間生活に浸透した還元されざる側面として言語を考察するものである。
2.3 社会的なるものと生物的なるもの
➠大半の実践理論は第一に人間同士の行為からなる「社会的実践」に関心を寄せてきた
:社会的実践は自然界のなかで具体化されるものの、両者は切り離されて把握される。
↑カントの[自然法則に従う現象界/合理的な法観念に従う行為の世界]という区別を維持。
↓だが↓
➠社会的世界をその自然界から切り離して捉えることは誤っている。
両者は単に相互作用的(interaction)なのではなく、親密的(intemacy)である。
:精神と世界の間に明確な境界がないだけでなく、身体と世界の間にも明確な境界はない。
➠自然界と社会的世界の親密さについての様々な論拠を実践論は提示している。
①社会的実践は身体化されるものであり、身体技法は環境から与えられるもの(アフォーダンス)や環境による抵抗に対する反応を通じて形成される。
②人間の実践において、「物質文化」や様々な装置は統合的な役割を果たす。規範的な社会的相互作用と(自然的ないし技術的に構築された)因果的-環境的連鎖の間の境界も否定されるべきである。
②言説的実践が適切に概念化されるためには意味論的な外在化が必要である。言語の規範性を理解するためには、言語学的関係性だけでも語用論的関係性だけでも足りない。言語使用は、発言がなされる環境に密接に結びついているからである。
➠発達論や進化論の理論家達によれば、発達は環境との相互作用のパターンを含むものであり、そうした発達のパターンが進化に統合される。人間の話し言葉や書き言葉は、人間の生物学的発達がなされる環境の属性であり、言語の再生産は生物学者が「ニッチの構築」と呼ぶ有機体が自らの発達にともなって環境を形成する手法の顕著な例であろう。
↓このような見地を含みこむことで↓
➠実践論は、生物学的決定論に対する防波堤としてではなく、より適切な人間の生物学的理解における除去されえない側面として社会科学の規準を保持するものとなりうるだろう。
[補足資料](久保明教2006「現代ロボティクスについての人類学的考察」より抜粋)
ソール・クリプキは、ウィトゲンシュタインの著作『哲学的探求』の読解をもとに、規則に従うということに関する懐疑的パラドックスを提示した。
クリプキが提示するのは、足し算(アディション)を行う「私」と、懐疑論者の風変わりな対話である[クリプキ1983:11-107]。「私」は、様々な二つの数の足し算をこれまで行ってきたが、それらは全て57より下の数であったとする。さて、「私」ははじめて「68+57」という計算を行い「125」という答えを出す。この時、懐疑論者がやってきて、「私」のこれまでの「+(プラス)」という言葉の使用法からすれば答えは「5」になるはずだと主張する。懐疑論者によれば、「私」はこれまで「+(プラス)」という語で「+(クワス)」という関数を意味していたのであり、その関数は次のように定義される。
もし X,Y <57ならばX+Y=X+Y であり、そうでなければ X+Y =5である
懐疑論者の言うことは極端に突飛に見えるが理論的には論駁できない。私たちは普通、自分が「+」による計算を把握している(つまり足し算ができる)ということを、過去に行った有限回の計算だけでなく将来行う計算についても同じ規則に従って計算する、ということだと考えている。懐疑論者の主張を全く間違っていると感じるのは、彼が行うべきだと言う計算の仕方が、「私」が今までやってきたこととは全く違うものに思えるからである。しかし、「私」はこれまで有限回しか「+」を使った計算を行っておらず、それらの有限個の計算は「クワス」という関数に従っているとみなすこともできるから、これから行う「私」の計算が過去に行った計算の規則と同じものでなければならないならば、計算の答えは「5」でもありうるのである。57より下の数の足し算しかやったことがないという人はまずいないだろうが、ある程度大きな数になれば過去に一度も計算したことがない足し算は存在するだろう。したがって、懐疑論者の矛先は自分が足し算を理解していると考える人全てに向けられうるのである。
クリプキの議論が何を意味しているのか理解するためには、彼がどのような考え方に懐疑を投げかけたのかを慎重に把握しなければならない。懐疑論者をだまらせるのは簡単である。彼が「68+57=5」などと言わなくなるまで、68+57は125だといい続ければよい。実際に我々はそうやって足し算を学習させられたのではなかったか。我々が懐疑論者の主張を深刻な問題であるように感じるとしたら、それは我々が懐疑論者と同じ前提にたって考えるときだけである。その前提とは次のような考え方である。
<我々が「規則にしたがっている」と感じる時のことを考えてみると、自分の過去の有限の振る舞いを規定してきた「何か」があって同じものが未来の自分の振る舞いをも導くように感じられる、だからその「何か」は過去の自分の振る舞いを振り返ることで特定できるはずであり、それこそが「規則」である>。
クリプキが懐疑を投げかけたのはこのような考え方に対してである。懐疑論者はこの前提を逆手にとって、「クワス」も「プラス」と同じように過去の振る舞いに適合してしまうから、これから行う計算は「プラス」という関数に従うべきであるのと同じ程度に「クワス」という関数にも従うべきであると主張するのである。したがって、クリプキの言わんとしていることは、「規則に従う」ことが不可能であるということではなくて、我々が「規則にしたがっている」と感じる事態を「規則にしたがっている」という形で言い表すとパラドクスが起こるということである。換言すれば、「規則にしたがっていると感じる」ということを、我々の有限の経験から特定可能な「何か=規則」があり、それが我々の振る舞いを過去から未来にわたって規定している、という風に考えることはできないということである。
クリプキは彼の提示した懐疑論に対する二つの反論を取り上げて論駁している。第一の反論は、我々が「68+57」に対して「5」ではなく「125」と答えるのは、「+」によってクワスを意味するのではなくプラスを意味するような傾性(傾向性:dispositon)が我々にあるからだ、というものである[クリプキ1983:43]。第二の反論は、機械は足し算のような規則に従うことができ、勝手な数字をはじき出す選択の自由をもたない。規則に従っている時には人間もまた機械と同じで勝手な数字をはじき出すことはできない、というものである。
クリプキは二つの反論はおなじ形を取っていると論じる。なぜなら、第二の反論は「あたかも我々を機械として解釈しているかの如くに見えるが、その機械とは、与えられた入力に対し正しい出力を機械的に生むという傾性を有するものであるから」だ[クリプキ1983:62]。
二つの反論はクリプキが懐疑を投げかけた考え方を変形したものであると考えられる。我々が「規則に従っている」と感じる事態を、我々が「「何か=規則」に従っている」と言い表すことはできないというクリプキの懐疑論に対して、二つの反論はともに「「何か」に従っている『何か』が我々の中に存在し我々はそれに従っている」と主張するものである。その『何か』として「傾性」と「機械」が想定されているのである。
機械論者(第二の反論者)が想定している「機械」という概念こそ、「機械とはあらかじめ決められた規則に従って動くものである」という我々にとって自明な認識に埋め込まれているものである。クリプキはこの反論を、二つの理由から退けている。第一に、「機械は有限な対象であり、ただ有限個の数のみを入力として受け入れ、ただ有限個の数のみを出力として生み出す」[クリプキ1983:64]ものであるから、懐疑論者は足し算のときと同じように論理的に論駁できない突飛な主張をすることができる。第二に、現実の機械には常に誤作動の可能性があるから、機械がいつでも「68+57=125」と叩きだすとあらかじめ断言することはできない。このとき「機械」を「傾性」に置き換えるだけで、第一の主張も同様に退けられることになる。
*クリプキ、ソール A 1983『ウィトゲンシュタインのパラドックス-規則、私的言語、他人の心-』 黒崎宏訳 産業図書。