<多自然主義:477-479>
以上の議論を経て、先住民のパースペクティヴィズムへの理解として人間中心主義的な比喩モデルが廃棄された代わりに、相対主義が採用されたように見えるかもしれない。
=パースペクティヴィズムとは、同一の世界に対する表象の複数性を主張するものである、という結論に我々の議論は落ち着くように見えるかもしれない。
↓だが↓
民族誌データが示唆しているパースペクティヴィズムの実態はその逆である。
:全ての存在者は世界を同じ仕方で見る=表象する。変化するのは彼らが眺める世界の方であるとされる(Ex:人間にとっての血=ジャガーにとっては玉蜀黍のビール)。
:表象的・現象学的な単一性が、根本的な物質的多様性に対して適用される(対して、文化相対主義では、主観的で局所的であるがゆえに多様な表象が、その外部にある単一の自然を捉えるという図式が前提される)。単一の「文化」と複数の「自然」がある。
:パースペクティブは、表象ではない。表象は精神や思考の属性であり、視点の違いを生み出すのは――全ての種において同一な魂ではなく――諸身体の個別性である。
↓したがって↓
非人間が人間(person)であり魂をもつにも関わらず人間から区別されるものは、
彼らの身体が我々の身体とは異なるからである。
:この差異は、生理学的な差異ではなく、感情や特性や能力の差異である。つまり、ここで言う「身体」とは、物質的な実体ではなく、個々の存在者のハビトゥスを構成する存在の仕方および情動の集合体(何を食べ、いかにコミュニケートし、どこに住み、どの程度の規模の集団で暮らすか等)である。この次元が、魂の形式的な主体性と各有機体の物質的実体のあいだを媒介するのである。
:だが、「身体」の間の差異はそれをまなざす他者の視点があってはじめて理解される。
「身体」とは、他者性を理解する方法なのである。我々がふつう動物を人間とみなさないのは、我々自身の身体(とそれによって発生する視点)が彼らのそれと異なるからだ。
↓したがって↓
「文化」が主体の再帰的なパースペクティブ(=魂の概念を通じて客体化されるもの=代名詞「I」に示される自己言及性)であるなら、「自然」とは主体が他の身体-情動に対してもつ視点である。それは身体としての形をとる「他なるもの」であり、主体にとっての客体(=「It」)である。先住民にとって差異を生み出すのは身体なのである。
◎例証:前述したL=Sが参照した事例では、スペイン人が現地民が(自分たちと同じ)魂を持っているか否かを調べようとしたのに対して、現地民は、白人たちが自分たちと同じ種類の身体を持っている否かを調べようとした。現地民が身体を持っていることを白人は疑わなかったのに対して、現地民は白人が魂を持っていることを疑わなかった。彼らが知ろうとしたのは、その魂に結びついた身体が彼ら自身の情動と同じタイプのものを発するものであるかどうかであった。
先住民のエスノセントリズムが、他者の魂は同じ身体をもつのかという疑いに結びつくのに対して、西洋のそれは、他者の身体は同じ魂を持つのかという疑いに結びつく。
:西洋的思考における人間の地位は本質的に両義的である。一方で、人間は動物種のひとつでしかなく、他方で人間性には諸動物を包含する倫理的な地位が与えられる。二つの見解は、「人間本性human nature」なる問題含みの概念のうちに並存している。
↓換言すれば↓
西洋の思考では、動物と人間の間に物理的連続性と形而上学非連続性が設定される。
:前者の連続性は自然科学の対象としての人間を、後者の非連続性は人文学の対象としての人間を生み出してきた。魂ないし精神(Mind)は強力な差異化の指標であり、それによって人間は動物の上位に置かれ、諸文化は区別され、個々人の唯一無二性が担保される。身体は主要な統合の指標であり、それによって我々は普遍的な実体(DNA等)に結び付けられる。
↓対して↓
アメリカ先住民は、種々の存在者の間に形而上学的連続性と物理的非連続性を設定する。
:前者の連続性がアニミズムを、後者の非連続性がパースペクティヴィズムを生み出す。
(主体の再帰性としての)魂は統合を担い、(行為する情動としての)身体は差異化を担う。
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