先日、
上記タイトルで行われた京都人類学研究会における小田亮氏の講演のコメンテーターを
つとめさせていただいた。
コメントの内容について多分に舌足らずなところがあったのでここで補足しておきたい。
*講演内容については、講演原稿を加筆したものが小田亮氏のHPに掲載されています→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/nijuusyakai.html
すべて補足しようとするとキリがないので、一つだけ、本講演原稿の以下の箇所で示されている判断についてのコメントに対して補足したい。
近代社会においては、社会関係は、もはや、一人の人間が他の一人によって具体的に(比較不可能な複雑性を残したまま)理解されるというやり方にもとづいてはおらず、かなりの部分、書かれた資料やメディアを通しての間接的な再構成にもとづいているということだ。そのことによって、私たちの接触=コミュニケーションにまがいものの(非真正な)性格を付与していると、レヴィ=ストロースはいう。「ほんもの(真正性)」と「まがいもの(非真正性)」という用語は評判が良くないが、ここで言われている「まがいもの性=非真正性」は、「あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということ」による複雑さの縮減、いいかえれば規格化され単純化された一般性への還元、比較可能なものへの還元ということを意味しているにすぎない。その還元は「一般性-特殊性」という軸への還元と言いかえられる。非真正な社会は、「一般性-特殊性」の軸によって特徴づけられるが、それに対して、「普遍性-単独性」の軸は、「一人の人間が他の一人によって具体的に理解される」ことが必要条件となるゆえに、真正な社会においてのみ成立する。
注:加筆された原稿の方が分かりやすいので、そちらを引用した。
上記の文章の黒太字で記した個所について、私は以下のようなコメントを行った。
「個々人の生が代替不可能であり比較不可能であるような単独性をもつ、ということは他の人びととの対面的なコミュニケーションや関係性による小規模な社会関係(=「真正な社会」と小田が呼ぶもの)においてのみ可能である」という主張には納得できない。むしろ、個々人の代替可能性と代替不可能性を接合し調停する仕組みは近代社会(=非真正な社会)においても見出すことができるのではないだろうか。例えば、ルイ・デュモンは『個人主義論考』において、近代的な「個人」概念が、初期キリスト教に(およびインド社会に)みられる世俗外個人(社会関係の網の目から離脱した人々)の有様が社会関係の内部に組み込まれていくことで成立してきたと論じている。その過程において、個々人は神との直接的な関係を世俗内でも貫徹しうる存在として再概念化され、それによって世俗外個人と同質の有様が世俗内でも可能となる。こうして近代的個人は、「世俗内個人」として現れてきたのである。以上のデュモンの議論は、神(=普遍なるもの)との関係において「他の誰でもないこの私」の単独性が生起するという論理が、近代的個人という考え方の中核にあるということを示していると考えることができるのではないだろうか。で、あれば、『「普遍性-単独性」の軸は真正な社会においてのみ成立する』とは言えないのではないだろうか。
このコメントはなんとも舌足らずだった。コメントの意図を十分に伝えることができなかったからだ。その意図とは、もし「近代的個人」という概念もまた「普遍性-単独性」の軸を成立させるための一つの方法論であるのならば、多かれ少なかれ「近代的個人」概念に依拠するグローバル化や「ネオ・リベラルな文化」の世界的流通に対して、これらの運動は規格化され単純化された一般性へと人々の生を還元してしまうものである、と小田氏のように断定してしまうことは妥当性を欠くのではないだろうか、ということである。
ただし、このコメントはまだ論証されていない仮設に依拠したものであるから、もちろん批判ではない。ただ、論述の方向性があらかじめ論者が主張したい地点へと固定されてしまっているのではないかという違和感を感じたため、他の論理展開も可能なのではないかと指摘したかったのである。
この違和感の根っこにあるのは、そもそも「グローバリゼーションとネオリベラリズム的な支配に対抗」(原稿から抜粋)しなければならない、という倫理的判断を不動の前提として論理を展開し研究発表を行うことが学問的営為として妥当なものなのか、という疑問である。私自身は、グローバル化やネオリベラリズムを絶対に良いことだと絶対に悪いことだとも思わない。そして、人類学者として発言するならば、それが良いことなのか悪いことなのか(あるいは、それに迎合すべきか抵抗すべきか)という判断をする前に、「グローバリゼーションやネオリベラリズムがここまで展開してきたのは、なぜ/いかにしてなのか」という問いを、これらの運動もそれ自体が「人類」の集合的営為であるという前提にたって詳細に調べ考えるということがまずは大事なことなのではないかと私は思う。(少なくとも今回の講演における小田の論旨からは、グローバリゼーション自体は人類学的研究の対象とはなりえないものであり、グローバリゼーションに対抗しつつ真正や社会を維持し続ける人々の営みこそ人類学が研究すべきものである、という定言命法が発せられているように感じられ、そこまで言うのは言いすぎなのではないかと思う次第だ)。グローバリゼーションやネオリベラリズムを駆動する人々の営みもまた、(小田が参照する「上野村」という永遠の世界に住まう人々の営みと同じく)、人間の営みであることに変わりはない。少なくとも、グローバリゼーションやネオりべラリズムを駆動する人々の営みを彼ら自身の視点に肉薄して理解しようと試みることもなく、あたかも非人間的な力であるかのようにこれらの運動を把握する限り、それらの運動に対して倫理的な判断をなすことはできない、と私は考える。
私はまた、「この講演内容においては、倫理的な主張(こうであるべき)と論理的な分析(こうなっている)が絡み合ってしまっていて、読めば読むほどよくわからなくなってくる」ともコメントした。このコメントの意図も補足すると、<私は学問的研究が倫理的内容を含むことを否定するものではない。自分自身の研究を通じても、なんらかの倫理的な力を形にしあるいは生み出すことを目指しているものではある。しかしながら、学問が倫理的たりうるのは、論理と倫理をギリギリのところまで同時に追求し、両者の間の矛盾と軋轢に可能なかぎり耐えることによってのみ可能なのではないのか? 特定の倫理的判断をあらかじめ固定的に前提してしまえば、その判断を最初から共有する人にしか伝わらないのでは? それって、少なくとも自分には全然面白くないんですけど? 人類学って自分の拠って立つ前提を異なるものとの対峙を通じて絶えず掘り返し続ける営為じゃなかったの?>というものだった。
ただし、このコメントも学問的な批判というよりは、学問に対する考え方の違いという所に落ちてしまうようにも思える。少なくとも会場の雰囲気としては、この講演の内容が学問として基本的な部分でNGだという判断をしている人はあまりいなかったように感じた。
私自身も、この講演や「二重社会」をめぐる小田氏の研究が完全にNGだとは思っていない(他の学問領域では完全にNGだとみなされる可能性はあると思うが、そういう研究があってはならないとも思わない)。ただ、「二重社会」や「関係の代替不可能性」といった興味深い論点を提示され、いろいろと自分の考えにもひきつけて考察してみようとすると、スルリと議論がこちらの視野から抜けてしまうようにできているように感じ、どうももったいないというか残念というか、そんな印象を受け、そうなってしまう原因が倫理を固定してしまっていることにあると考えたので、以上のようなコメントになった。
学問的な批判となりうる論点については、色々と考えもあるのでいずれ時間ができればこのブログに書くかもしれない。いまのところ私の基本的な考えは、小田氏の議論において混同されているようにみえる「個の代替不可能性」という概念と「関係の代替不可能性」という概念(これについてはhttp://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/daitaihukanousei.htmlで詳しく展開されており、これを読むと本講演では不明瞭な点も結構わかるようになっている)は、きちんと区別されるべきものであり、むしろ個の「代替不可能性」と「代替可能性」の間を接続し調停するやり方の一つとして「関係の代替不可能性」と小田氏が呼ぶ局面が現れる、とするべきではないだろうか(そして、近代的個人主義は同じ働きをするもうひとつ別のやり方なのではないか)というものだ。
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