<アニミズム:472-474>
本稿で言う「パースペクティヴィズム」は、
Descolaによる「アニミズム」の再定義への回帰に見えるかもしれない。
:彼によれば自然を客体する仕方には以下の三つのモードがある。
①トーテミズム:自然種間の差異は社会的差異のモデルとして用いられる。自然と文化の関係は隠喩的であり、二つの系列(内/間)の非連続性によって構成される。
②アニミズム:社会生活の基本カテゴリが人間と自然種の関係を組織する。人間の特性・社会性が自然界の存在へと帰せられ、自然と文化の間に社会的連続性が定められる。
③自然主義(西洋のコスモロジーが典型):<必然性の領域としての自然/自発性の領域としての文化>という存在論的二分に基づき、両者は換喩的非連続により分割される。
そしてアニミズムは、動物が自然の客体化と社会科の戦略的拠点となる社会に特徴的なものとされる。
↓以上のDescolaの主張からいくぶん離れて↓
ここで私が論じたいのは「アニミズム」と「自然主義」の対比についてである。
・アニミズムの前提:人間(社会)と非人間(自然)の関係自体が社会的世界に含まれる。
<社会=無徴、自然=有徴>*
・自然主義の前提:社会と自然の関係自体が自然の中に含まれる。
<自然=無徴、社会=有徴>*
*[Man/Woman]におけるMan(男/人間)のように、一項がもう一つの項と対立すると同時に二項を包含する共通項として機能する時、それを無徴、もう一項を有徴と呼ぶ。
:西洋の自然主義では、自然/社会のインターフェイスは自然的。人間は生物学的・物理学的な法則性に支配される点で他の存在者と同質の有機体である。一方、主体間の制度化された関係としての社会関係は、人間社会にのみ存在するとされる。が、自然(法則)の普遍性を認める限り、人間と社会的世界の地位は不安定なものとならざるをえない。
↓その結果↓
➠西洋の思考は、自然主義的一元論(近年では「社会生物学」)と<社会/文化>の二元論(近年では「文化主義」)の間を揺れ動いてきた。後者は、最終的参照点としての自然概念
を強化するものであり、自然/超自然という概念対立の末裔に他ならない。文化とは「魂(Sprit)」の近代的呼称なのである。対して、アニミズムにおいて不安定となるのは自然の方であり、普遍なる社会性から自然を差異化することが問題となる(と言いたくなる)。
↓しかしながら↓
<アニミズム=人間界の特性・差異の非人間世界への投影>という定義は妥当だろうか。
:(Ingoldによれば、)こうした比喩的投影モデルは、結局のところ「本当の自然」と「文化的に構築された自然」を区別することで、自然/文化の二元論に帰着するものである。
(=西洋の思考における自然-文化の換喩的な非連続性を未開に隠喩的に投影したもの)
↓問うべき論点は↓
①アニミズムとは人間的-社会的世界に属するカテゴリを用いた非人間的領域の概念化である、のだろうか? (次節)
②もしアニミズムが人間の認知・感覚能力および主体性を動物に帰することであるならば、人間と動物の違いとはつまるところ何だろうか? (次節)
③アニミズムによる自然の客体化が[自然/文化]の二分法によっては捉えきれないものであるなら、この二分法の中心性を示唆する豊富な兆候が南米のコスモロジーに存在することをいかに説明すればよいだろうか? (次次節)
<エスノセントリズム:474-477>
「(「未開人」にとって)人間性の適用は集団の境界上で停止する」(L=S)。
:この見解は、多くの自民族名が「本当の人間」を意味するということが、異邦人を人間ではないものと定義することを含意するということによって例証されてきた。
エスノセントリズムは西洋の専売特許ではなく、人間の集団生活に備わる自然な態度なのである。
Ex「アメリカ大陸発見後数年間、スペインの調査団は現地民が魂を持っているか否かを調べようとし、現地民は捕えた白人達の身体が堕落したものか否かを調べていた」(L=S)。
:先住民たちもヨーロッパ人も自分たちが属する集団のみが人間性を持つと考えていたのであり、異邦人を動物や精霊から人間を区別する境界の外部に位置づけていたのである。
このように、L=Sの時代には、未開人が我々と同じ区別(自然/文化、人間/動物など)を行っていることを示すことで、彼らの人間性を立証することが目指されていた。
↓だが↓
現在、新たなアニミズム(理解)は、近代的思考の傲慢に抗して、主体と客体ないし人間と非人間の普遍的な混交体=原始社会ないしポストモダンの「ハイブリッド」(Latour)を認めるものとして現れている。
:「未開人はちゃんと人間と動物を区別しており、だから人間的なのだ」とかつてのように主張する代わりに、今や我々は、未開人が決して行わない仕方で人間と動物を対立させる我々がいかに非人間的であるかを認めなければならない。
↓しかし↓
先住民の思考には、自らの集団以外を人間と認めないエスノセントリズムと他の自然種にも人間性を認めるアニミズムという矛盾する見解が同時に当てはまるようにみえる。
:だが、二つの見解は同じ現象が異なる視角から理解されたものに他ならない。
・「人間human being」と訳されてきた先住民の言葉は、自然種としての人間を指すものではない。それらは個体の社会的な状態とりわけ、主体としての地位を意味するものであり、名詞としてよりも代名詞(我々=人間)として機能する。だから、それらの言葉は発話主体の親族、彼の属する集団、全ての人間、主体性を持つ全ての存在、のいずれを指すこともできる。
↓したがって↓
➠動物や精霊は人間であると言うことは、彼らに主体としての地位を構成する意識・意図やエージェンシーを持つ力を認めるということである。
:「魂」(ないし「精神」)として客体化される。魂を持つものは全て主体であり、固有の視点(point of view)を持つことができる。視点を持つものは主体である。あるいは、視点が存在するところにはどこにでも主体たる位置が存在する。
:我々の構築主義的認識論を要約するソシュール派の定式「視点が客体を作る」に対して、先住民のパースペクティヴィズムにおいては「視点が主体を作る」のである。
↓まとめると↓
動物が主体とされるのは、彼らが人間に偽装されているからではない。
動物たちは潜在的に主体であるからこそ、人間なのである。
:アニミズムとは、人間の性質を動物に投影する営為ではなく、人間も動物も自らに対して持っている再帰的な関係が論理的に等値であることを表現するものである。人間性とは主体の一般的な形式を指す名であるからこそ、それは人間と動物の共通の基盤となるのである。
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