前回書いた記事、とくに後半について舌足らずな箇所があったので補足しておきたい。
村上春樹の用いる比喩表現の特徴を列挙した際、3番目に
③小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体において(あるいは小説のその部分において、ないし、主人公の心性やその場の雰囲気にとって)もつ意味に対して比喩表現(=「喩えるもの」)が用いられる。これは村上春樹だけでなく、多くの作家が頻繁に用いている手法だと思われる。
と書いた。
この、「小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩表現が用いられる」という言い方はこれだけの文章では分かりにくいと思うので、以下で詳述する。
まず、上記の文章では以下の二つの比喩表現を区別して対置している。
(A)通常の比喩表現:小説内のある要素に対して個別に比喩をかける。
(B)村上に特徴的な比喩表現:小説内のある要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩をかける。
ここで、二つの表現形式に妥当すると思われる具体例を挙げよう。
Ex(A)
「外に目をやると、窓のサッシュの向こうは気の滅入りそうな曇天である。年代物のエアコンがその老体に鞭打って必死に温かい空気を送っているが、足元から這い上がってくる冷気の方が優勢だ。今日も気温は上がりそうにない」(恩田陸『ネバーランド』55頁)
ここでは、冬の寒い朝に壊れかかった古いエアコンが動いているという情景が、「その老体に鞭打って必死に温かい空気を送っている」という比喩表現で描かれている。
この表現を書き手が作成しようとするとき、次のようなステップが踏まれるだろう。
1書きたい情景を思いつく
2その情景に付随する(させたい)印象を想起する
3その印象を的確に読者へと伝えられそうな比喩表現を考案し、それを含む情景描写を行う。
もちろん、この文章の作者=恩田陸が実際にこのステップを踏んだかどうかは分からない。だが、上記の表現は、このステップを踏んで書くことのできる範囲内の表現である。もちろん、表現の巧拙はあるし、恩田陸の文章は情景描写としては過不足なく洗練されたものではあるが、私たちが日常生活において比喩を用いる時も、多くは同様のステップを踏んでいる。例えば、旅行先で出会った風景についての感動を帰ってから友人に伝える時、素晴らしく美味しい料理の「美味しさ」を他人に伝えようとするとき、私たちは自らの印象をなんとか伝えようとして比喩を用いる。ただし、作家は自分の経験したことのみを書くわけではないし、経験したことであっても自らの印象とは異なるものを読者に伝えようとすることも少なくない。つまり、読者に特定の印象が伝わるように文を操作するという点で、作家は旅行の感想を喋る人間とは異なるわけだが、その目的がある情景を特定の印象を付随させながら描きだすことにあるという点で両者に変わりはない。
これに対して、村上作品に特徴的ないくつかの比喩表現はこうした方法では、ほとんど思いつくことができないものとなっている。例えば、
Ex(B)
僕らがバスに戻ったときには、もう乗客は全員座席についていて、バスは一刻も早く出発しようと待ちかまえている。運転手はきつい目をした若い男だ。バスの運転手というよりは水門の管理人みたいに見える。彼は避難がましい視線を、時間に遅れてきた僕と彼女に向ける(『海辺のカフカ』48頁)
あなたには、バスの運転手が「水門の管理人みたいに」見えたという経験があるだろうか?そもそも「水門の管理人」を見た経験のある人からして極めて少数だろう。つまり、この文章では、「バスの運転手が自分を見ている」という状況に付随する印象が
[以下工事中・・・]
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