<数多くの身体に宿る魂:479-483>
以上で得られた、身体が重要な差異化の担い手であるという知見は、アメリカ先住民の民族学における伝統的な問いのいくつかに以下のような新たな洞察を与えるものとなる。
◎アマゾニア社会における身体の重要性
身体が差異化する(=違いを生み出す)ものだという知見は、個々人のアイデンティティを示すカテゴリーがしばしば身体的な語彙に結びつくという現象の理解を容易にする。
食事や料理の管理が象徴的な重要性を持つという現象は、アマゾニア全域に見られる。
(Ex:神話における「生のものと火にかけたもの」(L=S)、食習慣に基づく基本的分類、食事を共にすることが持つ存在論的生産性、捕食者―被捕食者間の相関関係、etc)
:これらの現象の遍在が示すのは、身体を構成する一連のプロセスや慣習のセットこそが、同一性と差異が生み出される場となっているということである。
:同じことは、アイデンティティの定義や社会的価値の伝達における、記号としての身体の使用についても言える。そこでは――Turnerが指摘したように――人間の身体が典型的な社会的対象となっている。
↓しかしながら↓
身体の社会的構築は、自然的事物を文化の支配下に置くためではなく、人間の身体を一つの自然(=複数の自然のうち他とは区別されるその身体固有の自然)として生み出すためにある。身体の個別化により、他の人間集団や自然種からの差異化が図られる。
↓このように↓
先住民の思考において、身体とは、与えられるものではなく作られるものである。
:差異化をもたらすパースペクティブの起点として身体は、それを適切に表現しうるように個別化されなければならない。主体(=文化)が自らを表出するための基礎的な装置が身体(=自然)なのであり、身体が個別化されることで初めて主体は具体化される。
↓したがって↓
<身体(自然)/魂(文化)>の二分法は、両者の非連続性を含意しない。情動や記憶や視点の発生源たる身体において魂は具体化される。これに対して、具体的な身体のうちにある魂と、抽象的で形式的な主体性としての「真の魂」の間で区別がなされる
◎メタモルフォーゼ
身体がパフォーマティブな(行為を通じて作られる)ものであるという性質は、
先住民のコスモロジーにおける異種間のメタモルフォーゼという主題と関連している。
:西洋的思考では、差異を生み出す起点は精神である。そのため、他の精神とのコミュニケーションの不可能性(=独我論)や精神的な変容の不可能性がつねに問題となる。
↓したがって↓
先住民におけるメタモルフォーゼ(身体の変容による境界の越境)は、
西洋における「魂の会話」(魂の変容による境界の越境、テレパシー)の対応物である。
:また、先住民のカニバリズム(食べた動物が実は人間ではないかという懐疑として表出される、人間と動物の差異が崩壊することへの恐れ)は、西洋の独我論(異なる精神を持つゆえに他者が私と同じ種類のものであると言えなくなることへの恐れ)に対応する。
:独我論は、自然としての身体の類似性がはたして魂の共同性を保障するのかという不安に結びつき、カニバリズムは、魂の類似性が身体的な差異に打ち勝つのではという不安に結びつく。
↓また↓
メタモルフォーゼという概念は、動物の「装いclothing」という考え方と結びついている。
:この考え方は、身体とは見せかけの虚偽であり本質たる魂こそリアルだとする西洋的な思考ではなく、身体は廃棄され交換され入れ替えることができるということに依拠している。「装い」(シャーマンが用いる動物の仮面等)は、人間性を動物的外見で隠す装飾ではなく、異なる身体の力能を取り込みアイデンティティを変容させる道具なのである。
◎生者と死者の非連続性
➠先住民の社会において生者と死者が根本的に区別されるのは、魂によってではなく身体によってである。
:視点の源としての身体を失うことで、死者は生きている人間とは異なる存在となる。
精霊が人間身体からの分離によって定義されるのに対して、死者は動物の身体へと引き寄せられる。死ぬことは動物へと変容することだとみなされる。アニミズムは、人間と動物の間に(共に主体であるという)連続性を設定する。対して、パースペクティヴィズムは、生きている人間と死んだ人間のあいだの非連続性を設定する。それは、個別性を横断する魂の単一性に宇宙論的な「機能」を与えるものでもある。
↓ここに↓
「超自然」という概念を再考する余地が生まれる。
:社会生活を規定する間主観的関係性とも、動物たちの身体との「間客体的」関係とも異なる関係性を指す。換言すれば再帰的な代名詞「I」からなる文化の領域と、非人格的な「it/they」からなる自然の領域の間に、二人称「you」からなる領域=「超自然」が存在する。
:ある主体が異なる宇宙論的視点から把握されたとき、彼はその視点に立つ主体にとって「you」となる。超自然とは「主体としての他者」が取る形式である。
(Ex.典型的な「超自然的」状況:ある人が森で誰かと出くわす。最初それは動物や人間に見えるが、精霊ないし死者としての本性を現し、話しかけてくる。この対話は話しかけられた者を発話者と同種の存在へと変容させ、しばしば彼を死に至らしめる。
:超自然的存在からの呼び掛けに答えることは、相手が自分を二人称(you)で把握することを受け入れ、その存在が人間であることを認めることによって、自らを被捕食者=動物へと変容させてしまう効果を持つ。唯一シャーマンだけが、動物を二人称で呼びかけても動物に二人称で呼びかけられても人間主体としての地位を失わない。)
◎消失点
考察を締めくくる上で付け加えたいのは、
アメリカ先住民の遠近法における「消失点」として神話が機能しているということ。
*消失点:遠近法において、平面状で遠近感を表現するために用いられる無限遠点。
つまり、神話において、異なる視点の間の差異は無効となるのである。
:そこでは、全ての種が――シャーマンと同じく――自身にとっての自らの姿で他者の前に現れる。神話が語るのは、「身体と名前」「魂と情動」「私と他者」等が相互に浸透しあう前主体的で前客観的な状況の有様であり、より正確にはこうした状況の終焉である。
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