久しぶりに文句なく面白い人類学の論文を読んだ。
検討はいずれ、同じ著者の他の文献もあわせて行うとして、
とりあえずレジュメをアップしていくことにする。
個人的に使いたいアイディア、発展させたい論旨が沢山ある。
基本的には読みやすい論理構成だが、
記号論等色んな要素が隠しコマンド的に配置されている印象もあり、
分かりやすい文章でかなり胡散臭い内容が堂々と展開されていて、
そのバランス感覚もまた個人的には大変好ましい。良い学者だと思う。
というか、この論文に不満があるとしたら、第一に他人が書いているということだろうな。
**********
Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism
Eduardo Viveiros De Castro
1998
The journal of the Royal Anthropological Institute 4(3):469-488
<著者による要約>
本論では、アメリカ先住民の「遠近法主義=パースペクティヴィズム」(認識は認識主体が取る視点=パースペクティブによって制約されるとする立場)について論じる。人間・動物・精霊たちが彼ら自身や互いを眼差す仕方をめぐるコスモロジーとしてのこの考え方は、「パースペクティブ」や「視点」といった概念に基づきながら、自然・文化・超自然などの古典的カテゴリを再定義する可能性を示唆するものである。とりわけ本稿で論じられるのは、存在者の精神的側面と身体的側面のあいだの差異を考慮に入れれば、現地の思考にみられる矛盾(1エスノセントリズム:異なる集団の人間には人間性を認めない/と同時に/2アニミズム:他の自然種にも人間性を認める)は解消されるということだ。
<序論:469-470>
本稿で扱うのは、アメリカ先住民の思考における「遠近法主義的」とされる側面である。
:人間と非人間を問わず、この世界には様々な主体ないし人格(person)
が棲み、それぞれ異なる視点から現実を捉えているという考え方。
*遠近法主義=パースペクティヴィズム
:認識は認識主体が取る視点(パースペクティブ)によって制約されるとする立場。
この考え方は、近年の我々の考え方である「相対主義」に還元できるものではない。
:むしろ、相対主義と普遍主義の対立に対する適切な視角を与え、我々の認識論的議論の前提となっている存在論的分割の普遍性に疑いを投げかけるものである。
↓とりわけ↓
「自然/文化」の二分法は、非西洋のコスモロジーを記述する際には不適当であるということが多くの人類学者によって指摘されてきた。
:詳細な民族誌による批判を通じて、「自然/文化」なる二分法のもとに旧来用いられてきた種々の二項対立(普遍/個別、客観/主観、物理的/社会的、事実/価値、所与/制度、必然性/自発性、内在性/超越性、身体/精神(mind)、動物性/人間性など)に依拠した述語を再配置することがなされてきた。
↓こうした↓
民族誌ベースでなされてきた我々の概念枠組みの再編成の動きに導かれて、
多自然主義(Multinaturalism)という表現を私は提案する。
これは西洋の「多文化主義(Multiculturalism)」と対照的な考え方である。
・多文化主義:自然の単一性と文化の複数性(および両者の相互含意)に依拠するもの。
前者は身体(body)と物質の客観的普遍性を保証し、後者は精神と意味の主観的な個別性を保障する。
・多自然主義:精神的な単一性と身体的(corporeal)な複数性に依拠するもの。
文化ないし主体は普遍的な形をとり、自然ないし客体は個別的な形を取る。
↓このような↓
過分に対称的な両者の理解は理論的思索の産物でしかないが、アメリカ先住民のコスモロジーについての妥当な現象学的理解として発達させるべきである。
:<自然/文化>の二分法は批判に晒されるべきだが、「そのようなものは存在しない」と結論するためになされるべきではない。
:むしろ、我々が依拠してきた対比法をアメリカ先住民のコスモロジーにおける対比法と対比させることで、前者についての一つの視角を得ることを本稿では目指す。
<パースペクティヴィズム:470-472>
本考察の出発点はアマゾニア(アマゾン川流域)に関する多くの民族誌が言及してきた、
現地民の理論である。
その内実は以下のようなものだ。
:人間が動物や他の主体(神、精霊、死者、気象現象、植物、モノ、人工物など)
を知覚する仕方は、それらの存在が人間や自らを知覚する仕方とは全く異なる。
:通常、人間は自らを人間として動物を動物として、精霊を精霊としてみている。
が、捕食者である動物や精霊は人間(=餌)を動物とみなし、
餌である動物は人間を精霊や動物(=捕食者)とみなす。
:動物と精霊は自分たちを人間とみなしている。彼らは、自らの家や村で彼らの慣習や文化的要素を実践している際には、自分たちを人間に似た存在として知覚している
(Ex:ハゲワシは自らの食べ物である小象の腐肉を人間の食べる焼き魚として見る)。
(Ex:動物たちは毛皮や羽など自らの身体的特徴を人間の身体装飾としてみなし、
自分たちの社会が人間的な制度と同様の仕方で組織されていると見ている)
*「~として見る」とは類推的な概念ではなく対象の知覚の仕方を指している
(ただし、時に強調されるのは現象の感覚的側面よりも分類的側面であるが)。
↓要するに↓
動物は人間である、あるいは彼ら自身を人間(person)とみなしている、と考えられている。
:この考え方は、個々の自然種の外見的な形態は単なる装い=「衣服」にすぎず、それによって内側にある人間的形態が隠されている、という考え方と常に結びついている。
=内側にある人間的形態とは、彼ら動物の「魂」ないし「精神」であり、
人間的意識と形式的には同じ意図や主体性を持つもの。
:全ての生きるものが共有する精神的な型と、個々の種ごとに異なる身体的特徴が区別される。これらの特徴は固定的な性質ではなく、可変的で着脱可能な「衣服」であり、この「衣服」という考え方は「変態metamorphosis」の特権的な表現の一つである。
:精霊や死者やシャーマンは動物となり、
動物は他の動物になり、人間も動物となりうる。
後いくつかの論点について包括的な観察が必要である。
◎パースペクティヴィズムは通常全ての動物種を含むものではない。
:強調されるのは、人間を特に捕食する動物や人間が主に捕食する動物など象徴的ないし実用的な役割を担う種である。パースペクティブの反転に関して、おそらく基層となる次元は、捕食者⇔被捕食者の関係論的位置づけに関わっている。
:個々の動物に魂があるとされるとは限らない。神話時代以降の動物は自己意識を持たないとされることも、人間と同型の意図を持つ「スピリチュアル・マスター」が動物種の精神的本質を体現し、人間と動物が関係する場を作るとされることもある。
◎アメリカ先住民の思考においてほぼ普遍的な要素は、神話に描かれている人間と動物の未分化な状態である(Ex:人間的特徴と動物的特徴の混合物としての神話的存在)
:これらの神話の中心的主題である<文化/自然>の区別(Cf:L=S『神話論理』)は、動物から人間が差異化される過程(=西洋における進化論の神話)を意味しない。
人間と動物が本来共有する状態は動物性ではなく人間性である。神話が明らかにするのは、文化から差異化された自然であり(自然から差異化された文化ではない)そこでは人間が保持し続けている人間性を動物がいかに失ったかが語られる。
◎自然界のあらゆる存在に認められる「人間性」とは種としての人間ではなく、状態としての人間性である。
:この区別の帰結として、動物が持つかつて人間であったという性質に加えて現在の彼らに固有の精神性が認められ、これによって食料をめぐる広範な制限と予防が生み出される(Ex1:神話において人間に近い動物を食べることはできない。Ex2:シャーマンにより動物の主体性が抜き取られることで、それらは消費可能となる。)
◎このパースペクティヴィズムは、シャーマニズムおよび狩猟の安定管理と結びつく。
:狩猟社会においては、動物以外の存在の精神性は、動物のそれと比べて重要でない。動物は人間の外側にいる「他者」のプロトタイプであり、婚族など内側の他者形象と特別な結びつきを持つ。
:この思考様式は、シャーマニズムのそれでもある。非人間的存在の視点に立ちそれを物語ることのできる唯一の人間であるシャーマンは、彼らと人間の関係を管理する。西洋の多文化主義が公的政策としての相対主義であるならば、シャーマニズムは宇宙論的政治学(ポリティクス)としての多自然主義である。
Comments