『アンチ・オイディプス』をいまさらシツコク読書会で読んでいて考えたこと。
記号の質量性ないし身体性に注目することで文化・社会的実践を理解することの可能性を開いたということがポストモダン思想の良質の遺産の一つであり、
不完全ではあれそれを継承しているという点において、アクターネットワーク論を検討することの価値は未だあると個人的には思う(分析ツールとしてはあまり使いたくないけれども)。
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『アンチ・オイディプス』をいまさらシツコク読書会で読んでいて考えたこと。
記号の質量性ないし身体性に注目することで文化・社会的実践を理解することの可能性を開いたということがポストモダン思想の良質の遺産の一つであり、
不完全ではあれそれを継承しているという点において、アクターネットワーク論を検討することの価値は未だあると個人的には思う(分析ツールとしてはあまり使いたくないけれども)。
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前回書いた記事、とくに後半について舌足らずな箇所があったので補足しておきたい。
村上春樹の用いる比喩表現の特徴を列挙した際、3番目に
③小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体において(あるいは小説のその部分において、ないし、主人公の心性やその場の雰囲気にとって)もつ意味に対して比喩表現(=「喩えるもの」)が用いられる。これは村上春樹だけでなく、多くの作家が頻繁に用いている手法だと思われる。
と書いた。
この、「小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩表現が用いられる」という言い方はこれだけの文章では分かりにくいと思うので、以下で詳述する。
まず、上記の文章では以下の二つの比喩表現を区別して対置している。
(A)通常の比喩表現:小説内のある要素に対して個別に比喩をかける。
(B)村上に特徴的な比喩表現:小説内のある要素が小説全体(にまで広がるより広いコンテクスト)においてもつ意味に対して比喩をかける。
ここで、二つの表現形式に妥当すると思われる具体例を挙げよう。
Ex(A)
「外に目をやると、窓のサッシュの向こうは気の滅入りそうな曇天である。年代物のエアコンがその老体に鞭打って必死に温かい空気を送っているが、足元から這い上がってくる冷気の方が優勢だ。今日も気温は上がりそうにない」(恩田陸『ネバーランド』55頁)
ここでは、冬の寒い朝に壊れかかった古いエアコンが動いているという情景が、「その老体に鞭打って必死に温かい空気を送っている」という比喩表現で描かれている。
この表現を書き手が作成しようとするとき、次のようなステップが踏まれるだろう。
1書きたい情景を思いつく
2その情景に付随する(させたい)印象を想起する
3その印象を的確に読者へと伝えられそうな比喩表現を考案し、それを含む情景描写を行う。
もちろん、この文章の作者=恩田陸が実際にこのステップを踏んだかどうかは分からない。だが、上記の表現は、このステップを踏んで書くことのできる範囲内の表現である。もちろん、表現の巧拙はあるし、恩田陸の文章は情景描写としては過不足なく洗練されたものではあるが、私たちが日常生活において比喩を用いる時も、多くは同様のステップを踏んでいる。例えば、旅行先で出会った風景についての感動を帰ってから友人に伝える時、素晴らしく美味しい料理の「美味しさ」を他人に伝えようとするとき、私たちは自らの印象をなんとか伝えようとして比喩を用いる。ただし、作家は自分の経験したことのみを書くわけではないし、経験したことであっても自らの印象とは異なるものを読者に伝えようとすることも少なくない。つまり、読者に特定の印象が伝わるように文を操作するという点で、作家は旅行の感想を喋る人間とは異なるわけだが、その目的がある情景を特定の印象を付随させながら描きだすことにあるという点で両者に変わりはない。
これに対して、村上作品に特徴的ないくつかの比喩表現はこうした方法では、ほとんど思いつくことができないものとなっている。例えば、
Ex(B)
僕らがバスに戻ったときには、もう乗客は全員座席についていて、バスは一刻も早く出発しようと待ちかまえている。運転手はきつい目をした若い男だ。バスの運転手というよりは水門の管理人みたいに見える。彼は避難がましい視線を、時間に遅れてきた僕と彼女に向ける(『海辺のカフカ』48頁)
あなたには、バスの運転手が「水門の管理人みたいに」見えたという経験があるだろうか?そもそも「水門の管理人」を見た経験のある人からして極めて少数だろう。つまり、この文章では、「バスの運転手が自分を見ている」という状況に付随する印象が
[以下工事中・・・]
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<数多くの身体に宿る魂:479-483>
以上で得られた、身体が重要な差異化の担い手であるという知見は、アメリカ先住民の民族学における伝統的な問いのいくつかに以下のような新たな洞察を与えるものとなる。
◎アマゾニア社会における身体の重要性
身体が差異化する(=違いを生み出す)ものだという知見は、個々人のアイデンティティを示すカテゴリーがしばしば身体的な語彙に結びつくという現象の理解を容易にする。
食事や料理の管理が象徴的な重要性を持つという現象は、アマゾニア全域に見られる。
(Ex:神話における「生のものと火にかけたもの」(L=S)、食習慣に基づく基本的分類、食事を共にすることが持つ存在論的生産性、捕食者―被捕食者間の相関関係、etc)
:これらの現象の遍在が示すのは、身体を構成する一連のプロセスや慣習のセットこそが、同一性と差異が生み出される場となっているということである。
:同じことは、アイデンティティの定義や社会的価値の伝達における、記号としての身体の使用についても言える。そこでは――Turnerが指摘したように――人間の身体が典型的な社会的対象となっている。
↓しかしながら↓
身体の社会的構築は、自然的事物を文化の支配下に置くためではなく、人間の身体を一つの自然(=複数の自然のうち他とは区別されるその身体固有の自然)として生み出すためにある。身体の個別化により、他の人間集団や自然種からの差異化が図られる。
↓このように↓
先住民の思考において、身体とは、与えられるものではなく作られるものである。
:差異化をもたらすパースペクティブの起点として身体は、それを適切に表現しうるように個別化されなければならない。主体(=文化)が自らを表出するための基礎的な装置が身体(=自然)なのであり、身体が個別化されることで初めて主体は具体化される。
↓したがって↓
<身体(自然)/魂(文化)>の二分法は、両者の非連続性を含意しない。情動や記憶や視点の発生源たる身体において魂は具体化される。これに対して、具体的な身体のうちにある魂と、抽象的で形式的な主体性としての「真の魂」の間で区別がなされる
◎メタモルフォーゼ
身体がパフォーマティブな(行為を通じて作られる)ものであるという性質は、
先住民のコスモロジーにおける異種間のメタモルフォーゼという主題と関連している。
:西洋的思考では、差異を生み出す起点は精神である。そのため、他の精神とのコミュニケーションの不可能性(=独我論)や精神的な変容の不可能性がつねに問題となる。
↓したがって↓
先住民におけるメタモルフォーゼ(身体の変容による境界の越境)は、
西洋における「魂の会話」(魂の変容による境界の越境、テレパシー)の対応物である。
:また、先住民のカニバリズム(食べた動物が実は人間ではないかという懐疑として表出される、人間と動物の差異が崩壊することへの恐れ)は、西洋の独我論(異なる精神を持つゆえに他者が私と同じ種類のものであると言えなくなることへの恐れ)に対応する。
:独我論は、自然としての身体の類似性がはたして魂の共同性を保障するのかという不安に結びつき、カニバリズムは、魂の類似性が身体的な差異に打ち勝つのではという不安に結びつく。
↓また↓
メタモルフォーゼという概念は、動物の「装いclothing」という考え方と結びついている。
:この考え方は、身体とは見せかけの虚偽であり本質たる魂こそリアルだとする西洋的な思考ではなく、身体は廃棄され交換され入れ替えることができるということに依拠している。「装い」(シャーマンが用いる動物の仮面等)は、人間性を動物的外見で隠す装飾ではなく、異なる身体の力能を取り込みアイデンティティを変容させる道具なのである。
◎生者と死者の非連続性
➠先住民の社会において生者と死者が根本的に区別されるのは、魂によってではなく身体によってである。
:視点の源としての身体を失うことで、死者は生きている人間とは異なる存在となる。
精霊が人間身体からの分離によって定義されるのに対して、死者は動物の身体へと引き寄せられる。死ぬことは動物へと変容することだとみなされる。アニミズムは、人間と動物の間に(共に主体であるという)連続性を設定する。対して、パースペクティヴィズムは、生きている人間と死んだ人間のあいだの非連続性を設定する。それは、個別性を横断する魂の単一性に宇宙論的な「機能」を与えるものでもある。
↓ここに↓
「超自然」という概念を再考する余地が生まれる。
:社会生活を規定する間主観的関係性とも、動物たちの身体との「間客体的」関係とも異なる関係性を指す。換言すれば再帰的な代名詞「I」からなる文化の領域と、非人格的な「it/they」からなる自然の領域の間に、二人称「you」からなる領域=「超自然」が存在する。
:ある主体が異なる宇宙論的視点から把握されたとき、彼はその視点に立つ主体にとって「you」となる。超自然とは「主体としての他者」が取る形式である。
(Ex.典型的な「超自然的」状況:ある人が森で誰かと出くわす。最初それは動物や人間に見えるが、精霊ないし死者としての本性を現し、話しかけてくる。この対話は話しかけられた者を発話者と同種の存在へと変容させ、しばしば彼を死に至らしめる。
:超自然的存在からの呼び掛けに答えることは、相手が自分を二人称(you)で把握することを受け入れ、その存在が人間であることを認めることによって、自らを被捕食者=動物へと変容させてしまう効果を持つ。唯一シャーマンだけが、動物を二人称で呼びかけても動物に二人称で呼びかけられても人間主体としての地位を失わない。)
◎消失点
考察を締めくくる上で付け加えたいのは、
アメリカ先住民の遠近法における「消失点」として神話が機能しているということ。
*消失点:遠近法において、平面状で遠近感を表現するために用いられる無限遠点。
つまり、神話において、異なる視点の間の差異は無効となるのである。
:そこでは、全ての種が――シャーマンと同じく――自身にとっての自らの姿で他者の前に現れる。神話が語るのは、「身体と名前」「魂と情動」「私と他者」等が相互に浸透しあう前主体的で前客観的な状況の有様であり、より正確にはこうした状況の終焉である。
Posted at 23:57 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
<多自然主義:477-479>
以上の議論を経て、先住民のパースペクティヴィズムへの理解として人間中心主義的な比喩モデルが廃棄された代わりに、相対主義が採用されたように見えるかもしれない。
=パースペクティヴィズムとは、同一の世界に対する表象の複数性を主張するものである、という結論に我々の議論は落ち着くように見えるかもしれない。
↓だが↓
民族誌データが示唆しているパースペクティヴィズムの実態はその逆である。
:全ての存在者は世界を同じ仕方で見る=表象する。変化するのは彼らが眺める世界の方であるとされる(Ex:人間にとっての血=ジャガーにとっては玉蜀黍のビール)。
:表象的・現象学的な単一性が、根本的な物質的多様性に対して適用される(対して、文化相対主義では、主観的で局所的であるがゆえに多様な表象が、その外部にある単一の自然を捉えるという図式が前提される)。単一の「文化」と複数の「自然」がある。
:パースペクティブは、表象ではない。表象は精神や思考の属性であり、視点の違いを生み出すのは――全ての種において同一な魂ではなく――諸身体の個別性である。
↓したがって↓
非人間が人間(person)であり魂をもつにも関わらず人間から区別されるものは、
彼らの身体が我々の身体とは異なるからである。
:この差異は、生理学的な差異ではなく、感情や特性や能力の差異である。つまり、ここで言う「身体」とは、物質的な実体ではなく、個々の存在者のハビトゥスを構成する存在の仕方および情動の集合体(何を食べ、いかにコミュニケートし、どこに住み、どの程度の規模の集団で暮らすか等)である。この次元が、魂の形式的な主体性と各有機体の物質的実体のあいだを媒介するのである。
:だが、「身体」の間の差異はそれをまなざす他者の視点があってはじめて理解される。
「身体」とは、他者性を理解する方法なのである。我々がふつう動物を人間とみなさないのは、我々自身の身体(とそれによって発生する視点)が彼らのそれと異なるからだ。
↓したがって↓
「文化」が主体の再帰的なパースペクティブ(=魂の概念を通じて客体化されるもの=代名詞「I」に示される自己言及性)であるなら、「自然」とは主体が他の身体-情動に対してもつ視点である。それは身体としての形をとる「他なるもの」であり、主体にとっての客体(=「It」)である。先住民にとって差異を生み出すのは身体なのである。
◎例証:前述したL=Sが参照した事例では、スペイン人が現地民が(自分たちと同じ)魂を持っているか否かを調べようとしたのに対して、現地民は、白人たちが自分たちと同じ種類の身体を持っている否かを調べようとした。現地民が身体を持っていることを白人は疑わなかったのに対して、現地民は白人が魂を持っていることを疑わなかった。彼らが知ろうとしたのは、その魂に結びついた身体が彼ら自身の情動と同じタイプのものを発するものであるかどうかであった。
先住民のエスノセントリズムが、他者の魂は同じ身体をもつのかという疑いに結びつくのに対して、西洋のそれは、他者の身体は同じ魂を持つのかという疑いに結びつく。
:西洋的思考における人間の地位は本質的に両義的である。一方で、人間は動物種のひとつでしかなく、他方で人間性には諸動物を包含する倫理的な地位が与えられる。二つの見解は、「人間本性human nature」なる問題含みの概念のうちに並存している。
↓換言すれば↓
西洋の思考では、動物と人間の間に物理的連続性と形而上学非連続性が設定される。
:前者の連続性は自然科学の対象としての人間を、後者の非連続性は人文学の対象としての人間を生み出してきた。魂ないし精神(Mind)は強力な差異化の指標であり、それによって人間は動物の上位に置かれ、諸文化は区別され、個々人の唯一無二性が担保される。身体は主要な統合の指標であり、それによって我々は普遍的な実体(DNA等)に結び付けられる。
↓対して↓
アメリカ先住民は、種々の存在者の間に形而上学的連続性と物理的非連続性を設定する。
:前者の連続性がアニミズムを、後者の非連続性がパースペクティヴィズムを生み出す。
(主体の再帰性としての)魂は統合を担い、(行為する情動としての)身体は差異化を担う。
Posted at 07:23 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
<アニミズム:472-474>
本稿で言う「パースペクティヴィズム」は、
Descolaによる「アニミズム」の再定義への回帰に見えるかもしれない。
:彼によれば自然を客体する仕方には以下の三つのモードがある。
①トーテミズム:自然種間の差異は社会的差異のモデルとして用いられる。自然と文化の関係は隠喩的であり、二つの系列(内/間)の非連続性によって構成される。
②アニミズム:社会生活の基本カテゴリが人間と自然種の関係を組織する。人間の特性・社会性が自然界の存在へと帰せられ、自然と文化の間に社会的連続性が定められる。
③自然主義(西洋のコスモロジーが典型):<必然性の領域としての自然/自発性の領域としての文化>という存在論的二分に基づき、両者は換喩的非連続により分割される。
そしてアニミズムは、動物が自然の客体化と社会科の戦略的拠点となる社会に特徴的なものとされる。
↓以上のDescolaの主張からいくぶん離れて↓
ここで私が論じたいのは「アニミズム」と「自然主義」の対比についてである。
・アニミズムの前提:人間(社会)と非人間(自然)の関係自体が社会的世界に含まれる。
<社会=無徴、自然=有徴>*
・自然主義の前提:社会と自然の関係自体が自然の中に含まれる。
<自然=無徴、社会=有徴>*
*[Man/Woman]におけるMan(男/人間)のように、一項がもう一つの項と対立すると同時に二項を包含する共通項として機能する時、それを無徴、もう一項を有徴と呼ぶ。
:西洋の自然主義では、自然/社会のインターフェイスは自然的。人間は生物学的・物理学的な法則性に支配される点で他の存在者と同質の有機体である。一方、主体間の制度化された関係としての社会関係は、人間社会にのみ存在するとされる。が、自然(法則)の普遍性を認める限り、人間と社会的世界の地位は不安定なものとならざるをえない。
↓その結果↓
➠西洋の思考は、自然主義的一元論(近年では「社会生物学」)と<社会/文化>の二元論(近年では「文化主義」)の間を揺れ動いてきた。後者は、最終的参照点としての自然概念
を強化するものであり、自然/超自然という概念対立の末裔に他ならない。文化とは「魂(Sprit)」の近代的呼称なのである。対して、アニミズムにおいて不安定となるのは自然の方であり、普遍なる社会性から自然を差異化することが問題となる(と言いたくなる)。
↓しかしながら↓
<アニミズム=人間界の特性・差異の非人間世界への投影>という定義は妥当だろうか。
:(Ingoldによれば、)こうした比喩的投影モデルは、結局のところ「本当の自然」と「文化的に構築された自然」を区別することで、自然/文化の二元論に帰着するものである。
(=西洋の思考における自然-文化の換喩的な非連続性を未開に隠喩的に投影したもの)
↓問うべき論点は↓
①アニミズムとは人間的-社会的世界に属するカテゴリを用いた非人間的領域の概念化である、のだろうか? (次節)
②もしアニミズムが人間の認知・感覚能力および主体性を動物に帰することであるならば、人間と動物の違いとはつまるところ何だろうか? (次節)
③アニミズムによる自然の客体化が[自然/文化]の二分法によっては捉えきれないものであるなら、この二分法の中心性を示唆する豊富な兆候が南米のコスモロジーに存在することをいかに説明すればよいだろうか? (次次節)
<エスノセントリズム:474-477>
「(「未開人」にとって)人間性の適用は集団の境界上で停止する」(L=S)。
:この見解は、多くの自民族名が「本当の人間」を意味するということが、異邦人を人間ではないものと定義することを含意するということによって例証されてきた。
エスノセントリズムは西洋の専売特許ではなく、人間の集団生活に備わる自然な態度なのである。
Ex「アメリカ大陸発見後数年間、スペインの調査団は現地民が魂を持っているか否かを調べようとし、現地民は捕えた白人達の身体が堕落したものか否かを調べていた」(L=S)。
:先住民たちもヨーロッパ人も自分たちが属する集団のみが人間性を持つと考えていたのであり、異邦人を動物や精霊から人間を区別する境界の外部に位置づけていたのである。
このように、L=Sの時代には、未開人が我々と同じ区別(自然/文化、人間/動物など)を行っていることを示すことで、彼らの人間性を立証することが目指されていた。
↓だが↓
現在、新たなアニミズム(理解)は、近代的思考の傲慢に抗して、主体と客体ないし人間と非人間の普遍的な混交体=原始社会ないしポストモダンの「ハイブリッド」(Latour)を認めるものとして現れている。
:「未開人はちゃんと人間と動物を区別しており、だから人間的なのだ」とかつてのように主張する代わりに、今や我々は、未開人が決して行わない仕方で人間と動物を対立させる我々がいかに非人間的であるかを認めなければならない。
↓しかし↓
先住民の思考には、自らの集団以外を人間と認めないエスノセントリズムと他の自然種にも人間性を認めるアニミズムという矛盾する見解が同時に当てはまるようにみえる。
:だが、二つの見解は同じ現象が異なる視角から理解されたものに他ならない。
・「人間human being」と訳されてきた先住民の言葉は、自然種としての人間を指すものではない。それらは個体の社会的な状態とりわけ、主体としての地位を意味するものであり、名詞としてよりも代名詞(我々=人間)として機能する。だから、それらの言葉は発話主体の親族、彼の属する集団、全ての人間、主体性を持つ全ての存在、のいずれを指すこともできる。
↓したがって↓
➠動物や精霊は人間であると言うことは、彼らに主体としての地位を構成する意識・意図やエージェンシーを持つ力を認めるということである。
:「魂」(ないし「精神」)として客体化される。魂を持つものは全て主体であり、固有の視点(point of view)を持つことができる。視点を持つものは主体である。あるいは、視点が存在するところにはどこにでも主体たる位置が存在する。
:我々の構築主義的認識論を要約するソシュール派の定式「視点が客体を作る」に対して、先住民のパースペクティヴィズムにおいては「視点が主体を作る」のである。
↓まとめると↓
動物が主体とされるのは、彼らが人間に偽装されているからではない。
動物たちは潜在的に主体であるからこそ、人間なのである。
:アニミズムとは、人間の性質を動物に投影する営為ではなく、人間も動物も自らに対して持っている再帰的な関係が論理的に等値であることを表現するものである。人間性とは主体の一般的な形式を指す名であるからこそ、それは人間と動物の共通の基盤となるのである。
Posted at 07:18 in 文化人類学 | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
久しぶりに文句なく面白い人類学の論文を読んだ。
検討はいずれ、同じ著者の他の文献もあわせて行うとして、
とりあえずレジュメをアップしていくことにする。
個人的に使いたいアイディア、発展させたい論旨が沢山ある。
基本的には読みやすい論理構成だが、
記号論等色んな要素が隠しコマンド的に配置されている印象もあり、
分かりやすい文章でかなり胡散臭い内容が堂々と展開されていて、
そのバランス感覚もまた個人的には大変好ましい。良い学者だと思う。
というか、この論文に不満があるとしたら、第一に他人が書いているということだろうな。
**********
Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism
Eduardo Viveiros De Castro
1998
The journal of the Royal Anthropological Institute 4(3):469-488
<著者による要約>
本論では、アメリカ先住民の「遠近法主義=パースペクティヴィズム」(認識は認識主体が取る視点=パースペクティブによって制約されるとする立場)について論じる。人間・動物・精霊たちが彼ら自身や互いを眼差す仕方をめぐるコスモロジーとしてのこの考え方は、「パースペクティブ」や「視点」といった概念に基づきながら、自然・文化・超自然などの古典的カテゴリを再定義する可能性を示唆するものである。とりわけ本稿で論じられるのは、存在者の精神的側面と身体的側面のあいだの差異を考慮に入れれば、現地の思考にみられる矛盾(1エスノセントリズム:異なる集団の人間には人間性を認めない/と同時に/2アニミズム:他の自然種にも人間性を認める)は解消されるということだ。
<序論:469-470>
本稿で扱うのは、アメリカ先住民の思考における「遠近法主義的」とされる側面である。
:人間と非人間を問わず、この世界には様々な主体ないし人格(person)
が棲み、それぞれ異なる視点から現実を捉えているという考え方。
*遠近法主義=パースペクティヴィズム
:認識は認識主体が取る視点(パースペクティブ)によって制約されるとする立場。
この考え方は、近年の我々の考え方である「相対主義」に還元できるものではない。
:むしろ、相対主義と普遍主義の対立に対する適切な視角を与え、我々の認識論的議論の前提となっている存在論的分割の普遍性に疑いを投げかけるものである。
↓とりわけ↓
「自然/文化」の二分法は、非西洋のコスモロジーを記述する際には不適当であるということが多くの人類学者によって指摘されてきた。
:詳細な民族誌による批判を通じて、「自然/文化」なる二分法のもとに旧来用いられてきた種々の二項対立(普遍/個別、客観/主観、物理的/社会的、事実/価値、所与/制度、必然性/自発性、内在性/超越性、身体/精神(mind)、動物性/人間性など)に依拠した述語を再配置することがなされてきた。
↓こうした↓
民族誌ベースでなされてきた我々の概念枠組みの再編成の動きに導かれて、
多自然主義(Multinaturalism)という表現を私は提案する。
これは西洋の「多文化主義(Multiculturalism)」と対照的な考え方である。
・多文化主義:自然の単一性と文化の複数性(および両者の相互含意)に依拠するもの。
前者は身体(body)と物質の客観的普遍性を保証し、後者は精神と意味の主観的な個別性を保障する。
・多自然主義:精神的な単一性と身体的(corporeal)な複数性に依拠するもの。
文化ないし主体は普遍的な形をとり、自然ないし客体は個別的な形を取る。
↓このような↓
過分に対称的な両者の理解は理論的思索の産物でしかないが、アメリカ先住民のコスモロジーについての妥当な現象学的理解として発達させるべきである。
:<自然/文化>の二分法は批判に晒されるべきだが、「そのようなものは存在しない」と結論するためになされるべきではない。
:むしろ、我々が依拠してきた対比法をアメリカ先住民のコスモロジーにおける対比法と対比させることで、前者についての一つの視角を得ることを本稿では目指す。
<パースペクティヴィズム:470-472>
本考察の出発点はアマゾニア(アマゾン川流域)に関する多くの民族誌が言及してきた、
現地民の理論である。
その内実は以下のようなものだ。
:人間が動物や他の主体(神、精霊、死者、気象現象、植物、モノ、人工物など)
を知覚する仕方は、それらの存在が人間や自らを知覚する仕方とは全く異なる。
:通常、人間は自らを人間として動物を動物として、精霊を精霊としてみている。
が、捕食者である動物や精霊は人間(=餌)を動物とみなし、
餌である動物は人間を精霊や動物(=捕食者)とみなす。
:動物と精霊は自分たちを人間とみなしている。彼らは、自らの家や村で彼らの慣習や文化的要素を実践している際には、自分たちを人間に似た存在として知覚している
(Ex:ハゲワシは自らの食べ物である小象の腐肉を人間の食べる焼き魚として見る)。
(Ex:動物たちは毛皮や羽など自らの身体的特徴を人間の身体装飾としてみなし、
自分たちの社会が人間的な制度と同様の仕方で組織されていると見ている)
*「~として見る」とは類推的な概念ではなく対象の知覚の仕方を指している
(ただし、時に強調されるのは現象の感覚的側面よりも分類的側面であるが)。
↓要するに↓
動物は人間である、あるいは彼ら自身を人間(person)とみなしている、と考えられている。
:この考え方は、個々の自然種の外見的な形態は単なる装い=「衣服」にすぎず、それによって内側にある人間的形態が隠されている、という考え方と常に結びついている。
=内側にある人間的形態とは、彼ら動物の「魂」ないし「精神」であり、
人間的意識と形式的には同じ意図や主体性を持つもの。
:全ての生きるものが共有する精神的な型と、個々の種ごとに異なる身体的特徴が区別される。これらの特徴は固定的な性質ではなく、可変的で着脱可能な「衣服」であり、この「衣服」という考え方は「変態metamorphosis」の特権的な表現の一つである。
:精霊や死者やシャーマンは動物となり、
動物は他の動物になり、人間も動物となりうる。
後いくつかの論点について包括的な観察が必要である。
◎パースペクティヴィズムは通常全ての動物種を含むものではない。
:強調されるのは、人間を特に捕食する動物や人間が主に捕食する動物など象徴的ないし実用的な役割を担う種である。パースペクティブの反転に関して、おそらく基層となる次元は、捕食者⇔被捕食者の関係論的位置づけに関わっている。
:個々の動物に魂があるとされるとは限らない。神話時代以降の動物は自己意識を持たないとされることも、人間と同型の意図を持つ「スピリチュアル・マスター」が動物種の精神的本質を体現し、人間と動物が関係する場を作るとされることもある。
◎アメリカ先住民の思考においてほぼ普遍的な要素は、神話に描かれている人間と動物の未分化な状態である(Ex:人間的特徴と動物的特徴の混合物としての神話的存在)
:これらの神話の中心的主題である<文化/自然>の区別(Cf:L=S『神話論理』)は、動物から人間が差異化される過程(=西洋における進化論の神話)を意味しない。
人間と動物が本来共有する状態は動物性ではなく人間性である。神話が明らかにするのは、文化から差異化された自然であり(自然から差異化された文化ではない)そこでは人間が保持し続けている人間性を動物がいかに失ったかが語られる。
◎自然界のあらゆる存在に認められる「人間性」とは種としての人間ではなく、状態としての人間性である。
:この区別の帰結として、動物が持つかつて人間であったという性質に加えて現在の彼らに固有の精神性が認められ、これによって食料をめぐる広範な制限と予防が生み出される(Ex1:神話において人間に近い動物を食べることはできない。Ex2:シャーマンにより動物の主体性が抜き取られることで、それらは消費可能となる。)
◎このパースペクティヴィズムは、シャーマニズムおよび狩猟の安定管理と結びつく。
:狩猟社会においては、動物以外の存在の精神性は、動物のそれと比べて重要でない。動物は人間の外側にいる「他者」のプロトタイプであり、婚族など内側の他者形象と特別な結びつきを持つ。
:この思考様式は、シャーマニズムのそれでもある。非人間的存在の視点に立ちそれを物語ることのできる唯一の人間であるシャーマンは、彼らと人間の関係を管理する。西洋の多文化主義が公的政策としての相対主義であるならば、シャーマニズムは宇宙論的政治学(ポリティクス)としての多自然主義である。
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