よく出典を忘れるので。
ミシェル・フーコー「構造主義とポスト構造主義」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ 自己/統治性/快楽』pp298-334):322-323
「知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。理性が自らの必然性として経験すること、あるいはむしろ、合理性の様々な形態がそれらの必然的なあり方として与えるもの、それらの歴史を完全に語ることができるでしょうし、それらのことがそこから発生した偶然性の網の目を再発見することができるでしょう。だからといって、それは合理性の諸形態は非合理的であったということを意味するのではありません。それが意味するのは、合理性の諸形態は人間の実践と人間の歴史からなる台座に基づいているということ、そして、これらの事柄はなされたのだから、それらがどのようになされたのかを知れば、それらは解体されうる、ということです。」
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