意外なところで、自分の考えてきたことに相通じることの多い議論を発見。いずれ分析もするが、とりあえず抜粋と要約をまずは行う。
読書ノート:木前利秋2008『メタ構想力』未来社
第4章第1節 ヴィーコとマルクス
(P118-120)
トピカによる知の発見は、本書冒頭のマルクスの言葉を借りれば「社会的な生産状況」に根ざした「精神的諸表象」の生産過程に含まれる。トピカは新たな知の創造にかかわるかぎり、自然界・人間界のいずれでも働く。デカルト的な「クリティカ」は、政治的世界や実践知の独自の価値を見失うだけではない。そもそも知というものが発見される独自の相を忘却するところにこそ難がある。おのが分限を越えたときに見せる「抽象的でイデオロギー的な観念」は、新しいクリティカの欠陥を証しているのである。ところでヴィーコのこのトピカに対する評価と「新しいクリティカ」にたいする批判とは、マルクスがテクノロジーにこめた積極的意味と「抽象的な自然科学的唯物論」にむけた否定的評価に平行しているのがわかる。「自然に対する人間の能動的な態度」を示すテクノロジーは、マルクスにとって、社会的な生活から生まれる「精神的表象」の造型をともなう。テクノロジーはなによりも「現実の生活状況」の脈絡、いいかえれば生活世界の歴史的関係に根ざしている。テクノロジーの歴史は、この「現実の生活状況」にもとづいた「人類史」の一部である。唯物論を装った自然科学は、この歴史的基盤を忘却する。
[・・・] もちろん一見して平行関係にある両者にも中身には明らかなズレがある。ヴィーコにおいて作ることは発見の営みとしてあくまで知性の作用に加えられる。マルクスにとってそれは生産の過程としてもっぱら労働の機能に数えられる。作るとは、前者においてはシンボルの造型、後者においてはモノの生産である。作ることに関わりながら、前者では詩的知恵の発見の文脈が、後者では技術的知識の適用の脈絡が現れる。ヴィーコにとって作られるものが神という仮構の記号的表象であるとすれば、マルクスにおいてそれは財という現実の労働生産物である。
[・・・] だが、視点を変えれば、こうしたヴィーコとマルクスの相違も、同じ地平における位相の違いにすぎないことがわかる。両者はいずれもなんらかのかたちで<作ること>のあり方にかかわりながら、表象としての知を生活世界の地平との結びつきで見ていた。そのさい、ヴィーコがそれをシンボルの産出の位相において知の発見の脈絡に置くのに対し、マルクスはそれを物質的生産の位相に即して知の適用の脈絡から見る。知が根付く地盤となる同じ生活世界の地平にいながら、それぞれ知の異なった位相に着目している。
[・・・] しかし、もし両者の相違がこうしたかたちの位相差ならば、両者の視点は相互に対立するというより相互に補完する関係にあると見たほうがよい。むろん補完の関係といっても、二つの位相を前後する別の段階と見るのか、同じプロセスの二側面と解するのかで、その意味も捉え方も異なる。マルクスの労働概念を、ヴィーコの詩的創作に秘められた発想から再構成してみることで、この補完関係にいずれかの実質を与えてみること――ここでの課題はこれにある。