そもそも生権力という概念は、17~19世紀の西洋社会とそこに生じたある種の変化を分析するためにフーコーが用いた概念である。ここまではいい。歴史的事実や分析方法の妥当性を問題にすることはできるだろうが、彼の論旨はそれなりに一貫している。
しかし、特定の歴史的段階に限定された分析概念という枠を超え、現代の世界を捉えるため、そしてある種の批判を行うための概念としてこの言葉が使われる時、私はいつも戸惑いを感じてきた。簡単に言えば、それは、「権力」という言葉で何が言われているのかよくわからないという戸惑いである。
この困惑は、おそらくフーコーの議論が既存の(そして現在でもいまだ)一般的な権力イメージを根底から覆すものであることに由来する。特定の意図や意志を持つ何らかの中心的な組織や人物が存在し、それが自らの意図に従って人々が行為し生きていくように強制する力を持つ。こうした図式が権力という言葉で一般的にイメージされるものだろう。しかし、生権力とは、神や王や法といった超越的な審級を拠点として機能する力ではなく、個々の人間の生を拠点として社会を組織化していくプロセスである。こうしたプロセスにおいては、「いかなる国家機関も、いかなる階級も、いかなる経済的審級も、システムすべてを管理運営することはできない」とされる[檜垣2006:124]。そこでは、いかなる権力の中心も存在せず、誰もが権力の一部を構成する。つまり、安全で健康で充実した人生を送りたいと願う個々の「善意の(社会の)構成員」が、そう願うがゆえに、異常者を認知し、変質者を特定し、人口と生殖と身体を管理し、より清潔により正常なものとなるように社会を組織化していく<生権力>の働きを担うのである。したがって、ここでの権力の働きは、ある特定の人物や場所や組織に限定されるものではない。権力は、感染病のように広がる、不可視的で自律的な力として描かれる。
さて、ここに私の困惑が生じる。第一に、権力というものをこのような妖怪じみた偏在する力として描いてしまうと、それについて(批判しようとするにせよ、改善しようとするにせよ)何かを言うということが酷く曖昧で空虚なものになってしまうのではないかという戸惑いである。第二に――おそらくこちらの方が重要だろうが――、「生権力」という概念が指している事態が、一面では「清潔で安全で充実した生を保証してくれる社会を作るために皆が力を出し合っている」という事態であるならば、「それは社会を構成するための健全な力の発露であり、それで何の問題もないではないか。いろいろと批判したくなることがあるかもしれないが、健康で安全に暮らすために各人が多少のリスクを引き受けたり制約がかけられることがあったとしてもそれは仕方のないことだ」と言われてしまって終わりではないか、という戸惑いである(同じ戸惑いが近年の管理社会論をめぐるアポリアを構成しているようにも思える)。
以上の二点は、最終的に「生権力」という概念を私たちが生きる日常的で具体的な局面にどう引きつけて考えればよいのかがよく分からないという戸惑いにつながる。ネグリ&ハートの言葉を借りれば、「生権力」というシステムを「誰が、または何が、動かしているのか?」、より正確にはそこで権力が拠点とすると言われる「『生』とは誰のことか?」という点に関して、フーコーの議論はけして明確ではない[『帝国』:46]。こうした問いを梃子にして、フーコーの研究をより広い文脈で展開し現代世界の分析へと適用していくといった方向では様々な論者の仕事がすでに存在する(ドゥルーズ&ガタリ、アガンベン、ネグリ等)。ここで彼らの議論を総括し何らかの判断を下すような力量は全く私にはない。かわりに、ここで行いたいのは、「生権力」という概念を、日常的で個人的な局面の只中において捉えうるものとするための一連の考察である。あらかじめ言っておくが、以下で展開する考察は、書いている本人にとっても、歴史的・学説史的・論理的なレベルにおいてあまりにも荒い議論である。しかし、乱暴な仮説でしかなくても、仮説を検討する中でより精緻な考察につながることを期待しつつ、まずは一つのラインを通すことを試みる。
[引用文献] 檜垣立哉2006『生と権力の哲学』 ネグリ&ハート2003『帝国』