『神話論理Ⅲ―食卓作法の起源』読書中。
自分で進んで読むことにしたわけではなく、今年のゼミでやっているので。個人的にはやっぱりまだ神話論理読むのは早すぎると思うが、なんとなく今後考えるべき方向性がみえたので、ちょっと書いてみる。
まず、『神話論理』を読むうえでどうしても問題になるのは、「(L=Sが言う『神話的思考』の働きを通じて膨大な神話間に多様な変形がなされているということをとりあえず認めたとして)『神話的思考』をおこなっているのは一体全体誰なのか?」という点だと思う。
言い換えれば、地域的に隔絶した複数の神話の間に一方から他方への「変形」という関係が見出されるとして、その「変形」を行っているのは誰であり、いかにしてか、という点だ。
そんで、この疑問に対して「それはアメリカ先住民のみなさんだ」って答えるのはやっぱり無理がある。たしかに個々の神話を作って語ってきたのは彼らだが、全ての集団が語る神話が他の全ての神話を語る集団に細部まで知られているということはありえない。さらに、L=Sが神話間の「変形」を見出すとき、それは、特定の(伝播が実証されている)神話群の内部に限定されたものでは全くない。
したがって、「変形」を行っているのが特定の「~族の人々」であるとはけして言えない。つまり、X族の神話がY族の神話を「変形」したものであるとL=Sが述べるとき、原理的にそれは、X族がY族の神話をその細部まで知っていてそれを加工して自らの神話を作ったということを意味しない。「原理的に」というのは、実際にはそういうことがないわけじゃないだろうし、地理的に近接した部族の神話群や同じ部族が語る似通った神話群(複数のヴァリアント)に関してはL=S自身そういった直接的な関係を想定しているように見える。ただし、地理的に遠く離れた部族の神話間にはそういった直接的伝播を想定することはできないし、そうしたケースに見られる「変形」と地理的に隣接した部族の神話間に見られる「変形」とを、L=Sがその質において全く異ならないものとして扱っている以上、伝播は神話「変形」の必要条件ではない。
なんだか、長くなってしまったので以下はテキトーに書く(アイディアメモだし、まだ論証できるわけもないしね)。
要するに、「変形」を行っているのは誰か、神話的思考をになっているものは誰か、という問いに対しては、L=S自身の明示的な主張には反するが、こう答えるしかないんじゃないか。
それは、人間ではない、人間の集合的無意識でもない。神話的思考を担っているのは、人間と自然が相互入れ子状に織り成す関係の効果そのものであり、「人間と世界が互に他方の鏡となる」(野生の思考邦訳256頁)運動そのものである。
おそらく、まずこの点をきちんと『神話論理』から導き出す必要があるのだけど、まだアイディア段階なので、とりあえず、素材として使えそうな箇所としては神話論理3巻のP216~222あたりの話、太陽と月とカヌーを取りあげて1巻と3巻の内容を同時に論じていると部分を挙げておく。使い方としては、太陽と月などの自然物に関する物理的な事実や法則性と社会的文化的な人間生活の有様が相互に入れ子状に関係することで、種々の中間的なリアリティ(もちろんその代表例はカヌーなどの技術的人工物)を生み出していくというラインでの考察を加えるということ。つまり、種々の「変形」によって結びついた神話群全体を作っているのは、人間であると同時に自然でもあり、なによりもそれは入れ子上になった両者の関係性の効果であるという風に考えてみること。まぁ、仮説です。
で、こっから先はもっと乱暴な話だが、このように解釈し直した「神話的思考=野生の思考」論をアクターネットワーク論にぶつける。つまり、両者を同時に考えると、前者はこの世界についての総体的の知の体系(=「超越論的主体なしのカント哲学」*)が人間と種々の非人間がおりなす諸関係(ネットワーク)のエフェクトとして生み出されると論じている、ということが見えてくる。ほんで重要なのは、この場合の知とは「人間が世界に対して持つ」ものではないってこと、むしろ両者の力があわさって生み出されるものってことになる。
*:ここでリクールのL=S理解が効いてくるかもしれない。リクールは「超越論的主体なしのカント哲学」以外にも、「フロイト的というよりカント的な無意識、カテゴリー的で組み合わせ的な無意識」とか「・・・・・考える主体に準拠せず・・・・・自然と相同の、おそらく自然ですらある体系・・・・・」とL=Sの議論を評している(リクール「Symbole et temporalite」 Archivio di Filosofia, n0 1-2, Roma, 1963, p24.p9.p10)。特に最後の一文はとても大事っぽい。早く読まな。
つまり、上のラインで再解釈された神話的思考論は、[人間/非人間]の非対称性を放棄している点でANTに類似する。でも類似で終わるわけじゃない。私見では、ANTの弱点は、非対称性を否定することによって、(非対称性を前提にして考えられてきた)思考やカテゴリーや認識や想像力やアブダクションといったこの世界を生み出している重要な契機もまた、水に流してしまうってこと。ほんで、つまり、神話的思考を「人間と非人間を含むアクターネットワークの集合的な働きのエフェクトとして生み出される知」として捉えるんであれば、それは同時に、「メタ・ネットワーク」とでもいうべきものを入れ込んだかたちでのアクターネットワーク論を再構想するということにもなりうる。
つまり、ネットワークについてのネットワーク、あるネットワークの写像や関数であるような別のネットワーク、ネットワークを表象するようなネットワーク、といったものが、アクターネットワーキング(=無数のアクターが相互に関係をとりむすぶなかでネットワークが生成変化していく過程)の只中において生じるという視点を取り入れたANTを構成するということ。
おそらく重要なのは、あるネットワークがメタレベルのネットワークなのかオブジェクトレベルのネットワークなのかをあらかじめ決めることはできないってことで、おそらくあるネットワークは別のあるネットワークに対してはメタだが、別のネットワークに対してはオブジェクトレベルにあるってことになるだろう。つまり相対的ってこと。ほいで、こうしたメタ⇔オブジェクト軸における諸ネットワークの重なり合いや写像や隠喩的関係構築といった働きを込みにしたものがアクターネットワーキングの実相になるんじゃないか(おそらく、こういった視点からラトゥール独自の「翻訳」や「命題」概念を捉えなおすことができる)。
メタ・ネットワークという概念を取り出す候補としては、もちろん一方に技術を置き、他方に言語を置いて考えることになるだろうし、メタ⇔オブジェクト軸上の動きの可能性を上手く設定することができれば、「歴史」という観点についても現状のANTより柔軟なモデルを作れるきもする。まぁ、別にANTはどうでもいいし、こんな風に胡散臭い言い方になっちゃったら全然だめだろうけれども。要は今までの自分の研究の方向性としてどうせ今後考えることになるだろうラインを、随分と空想的な形ではあるが、書いてみました、ということで。
しっかし、なんかこのラインって、やっぱりベイトソンなのかぁ。『精神と自然』ぽいかもなぁ。
いまさら、ニューエイジぽいってのはどうなんだろ。ちゃんんとカタチになるまで人前ではいわんとこ。まだまだ妄想だ。