[読書会用アイディア・メモ]
19世紀末から20世紀初頭にかけてのトーテミズムやタブーをめぐる諸学の中心的論者による議論(人類学:フレーザー、人類学-哲学:レヴィ=ブリュール、哲学:ベルクソン、社会学:タルド、デュルケーム、精神分析:フロイトなど)の背景には、「普遍人類学」とでも呼ばれるべき広範な学問領域を横断して存在する問題意識があったと考えられる。
ここで言う、「普遍人類学」とは、①<彼ら=未開人>の慣習・制度・思考を分析し、②<我々=近代西洋人>のそれらと比較することによって、③普遍的な人間本性を解明しようとする試みを指す。この時、なぜ①+②を行うことで③が行えるとされたのかと言えば、周知の通り(A)<人間社会の進化論的理解>と(B)<「残存」=同時代の未開社会には社会進化の初期段階に存在した原始社会に特有の制度や心性が未だ残っている>という二つの考え方が前提とされていたからである。
しかし、こうした試みがなされた背景には容易には解決しがたい複数の潮流間の軋轢が存在したと考えるべきではないだろうか。つまり、(α)カントの人間学以来展開されてきた「普遍的な人間の本性が存在する」ことを前提としてその単一なる人間本性を探求する試み、(β)19世紀中盤までには確固たる学説となってきたダーウィニズムおよび進化論の学問的影響、(γ)世界各地の植民地化に伴って観察されてきた諸民族の豊穣な多様性とりわけ西洋社会(近代)と非西洋社会(非近代)の差異、などの間の矛盾である。そして、これらの対立をいかに調停しうるのかという問いが、創成期の人類学や「普遍人類学」的研究潮流を駆動していたように思われる。
例えば、(α)と(γ)の対立に関しては、敬虔なキリスト教徒であった研究者や活動家から構成され、人間の単一性という聖書の伝える神による人間の創造の必然的帰結と実際に観察された諸民族の多様性の間の矛盾を調停することを目指した「パリ民族学協会」(1839年)や「ロンドン民族協会」の試み(中心人物はウィリアム・エドワールやジェームズ・プリチャード)が挙げられる(後述する竹沢尚一郎氏の人類学学説史などに見られるように、しばしば彼らの活動はその方法論的散漫さを根拠にしてモーガンやタイラーなど近代人類学の前史段階に位置づけられる。しかし、ここでの問題意識からすれば前史こそが重要である。私の問題意識については後述する)。勉強不足のため(α)と(β)の対立と調停の試みに関しては多くを語れないが、哲学専攻の友人によれば19世紀の哲学・思想における極めて重大な課題の一つであったとは言えるのではないかということだ。
注目すべきは、いわゆる進化論主義的人類学が、これらの対立を見事に調停するテーゼを軸にして展開されていったということだ。それは、以下のような教科書的説明の中に如実に表れている。
「進化論的人類学は、誕生が明確にしるされる1871年から約50年の命脈を保っており、そのなかにはさまざまな著作が包摂されている。このとき、それらが共通して前提としていたのは以下のテーゼであった。「人間の本質」、つまり人間の知的能力は基本的に同一であること。それゆえ、世界中のすべての集団は同じような法則性にしたがって進化の階梯を歩むに違いないこと。しかし、それらは歴史的条件等の違いによって、異なる技術や制度の様態を示していること。ヨーロッパ社会の太古と現存する「未開社会」とは同じ発展段階にあると考えられること。それゆえ、記録の欠けるヨーロッパの過去を再現するには、現存する「未開」社会のデータを活用する有用であること。適切な仕方によって研究されたなら、社会制度や経済組織、宗教的観念などの進化の歴史は再構成されるに違いないこと。」(竹沢尚一郎『人類学的思考の歴史』:32)
ここでは、(α)人間知性の同一性、(β)社会形態の進化論的変遷、(γ)諸社会の多様性とりわけ西洋と未開の間に横たわる差異、の間の対立が見事に統合されているように見える。そしてこのテーゼは――それを具体的にどう展開し理論化しどの程度肯定しあるいは否定するかは種々異なるにせよ――先に「普遍人類学」と呼んだ複数の学問を横断する潮流において中心的な役割を果たしていたと考えられる。
だが、しかしこのように言うことは当時にあっても決して容易なことではなかったはずである。そもそも、上の三つの命題を統合しようとすれば以下のような根本的な疑問が生じてくる。
・進化論を人類史に適用することは本当にできるのか、できるとしたらそこにおいて「進化」とはどのようなものであり、人類史とはどのようなものでありうるのか?
・人類史を進化論的に把握することがたとえできたとして、その把握は人間知性の同一性という命題と統合可能なのか、あるいはそこにおいて人間の同一性を保障するものは何でありうるのか
・人間知性の同一性に根ざした進化論的人類史を想定することができたとして、それは通時的および共時的な諸社会の多様性や差異という経験論的事実と統合可能なのか。
モーガンやタイラーやフレーザーの著作は、こうした疑問を喚起しその解決を試みるものとして広範な学問的影響を持つに至ったと考えられるが、しかし、その試みに参画したのは彼ら人類学の祖だけではなく、人文社会科学一般の主要な理論家たちであったことは忘れないほうがよい。ここで彼らの議論の全貌を網羅することはできないし、そもそもまだまだ全くの勉強不足で何も言えないのだが、試みに一つのラインを引いてみたい。
それは、これらの問いとの対峙において「無意識」という概念が果たしてきた役割である。いまとなっては支離滅裂にも思える『トーテムとタブー』において、フロイトは近代人の精神異常者と未開人の間に類似した無意識的欲動(死者や支配者や近親相姦に対する「感情のアンヴィヴァレンツ」)があることを指摘する(→人間の多様性と同一性の間の調停)。さらに、両者が同一なものではなく差異があることを強調しながらも、その差異を、獲得形質の遺伝(後天的に獲得された形質が次世代に遺伝的に継承されていく)というアイディアを軸にした彼独自の進化論的人類史における変化(太古の父殺しの記憶によって概念化された関係と感情の構造が遺伝と変形の連鎖を通じて継承されていく)として説明していく(→人間の多様性と同一性の進化論的人類史への統合)。
以上のフロイトの立論は多分に「無意識」なるものの設定に依存している。近代の精神病に見られる感情のダイナミクスを近代人一般に潜在的な無意識的欲動として把握することで、それらを未開社会の一見して非合理的な慣習と類似したものとしてみなすことが可能になっているからだ。つまり、「我々近代人の意識的な自己理解においては我々と彼ら=未開人は全く違う。しかし、我々の内なる無意識に眼を向ければそこには彼らと似通った欲動が潜んでいる」というわけだ。そして、経験的に観察される人間的営為の足元に「無意識」的な領野を設定すること――いわば人間存在を二重化すること――によって、(α)人間知性の同一性、(β)社会形態の進化論的変遷、(γ)諸社会の多様性といった諸命題を統合するという試みはけしてフロイトだけの専売特許ではない。だが、その統合のやり方の違いによって種々の論者の間に三つの命題のどれを重視しどれを軽視するのか、あるいは三つの命題のそれぞれをどのように解釈し変形するのかという点においての差異が生じてくる。
例えば、マルクスにおいては人間の意識的活動の背後にあってその基盤をなす「下部構造」という概念設定を通じて、過去ないし現在の諸集団が資本の均衡や蓄積や増殖と相関する人類の進化史(→「史的唯物論」)に位置づけられる。ただし、そこでは人間知性の同一性という命題は後景に退く(と言えるかどうかは勉強不足でよく分からないが、あるいは唯物論的に理解された歴史の将来における完成という想念のなかに人間本性の同一性という命題が織り込まれているのかもしれない。これについては当然ヘーゲル哲学との連関を語らなければいけないだろうが、そんな知識と力は私にはない)。
あるいは、レヴィ=ストロースにおいては、欲動としての無意識ではなく、記号-論理的な思考形式(「構造」)としての無意識という概念設定を核にして、人間知性の同一性と多様性が統合される(「構造変換」)。しかしながら、彼の言う「構造」は(β)進化論的人類史観と馴染むものではなく、(β)の命題は、現在でも健在である非近代の思考(「野生の思考」)と近代の科学的思考(「栽培された思考」)という対立や、「冷たい社会」と「熱い社会」という対立に置き換えられる。前者は後者の基層をなすと彼は言うものの、前者から後者への移行が(西洋という限定された地域においてのみ、ではあるが)どのように生じたかについては考察されない。しかし同時に、レヴィ=ストロースの議論は、「歴史」を「構造」の外部に放遂することによって、目的論的で自己実現的な歴史観を否定し、「歴史」なるものを断固として偶発的で創造的な運動として提起しなおしているとも言えるだろう。
つまり、彼らは、対立する諸命題の調停を試みることによって、それらの命題の性質と相互関係を改変し、新たな軋轢と調停の可能性を生み出したのである。こうして更新された問いに取り組んだのが例えばドゥルーズ(+ガタリ)でありフーコーでありラカンでありデリダだったのではないかと思う。後二者についてはよく知らないので、前二者についてのみ言及すると、ドゥルーズにおいては、フロイト的な欲動としての無意識とレヴィ=ストロース的な記号-論理的形式性としての無意識が統合され(ex『意味の論理学』における意味の身体性)ることによって、欲動的かつ論理的なメカニズムの複合的作動としての諸社会の歴史性が資本の均衡・蓄積・増殖と結び付けらながら特異な唯物論的人類史として展開されていく(『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』*もちろんガタリとの協同によって『差異と反復』『意味の論理学』の時点から飛躍した部分はあるわけでそれほど連続しているわけではないが)し、フーコーにおいては、レヴィ=ストロースの構造概念の裏面にあった偶発的かつ創造的な歴史なるものを構造概念にぶつけることによってそれを改変・補足・更新しながら彼独自の「系譜学」が展開され、さらにはフロイトの「欲動」概念の対であった「抑圧」概念を破壊することを通じて、フロイト自身の理論をも含めて「欲動」の拠点たる身体と生殖と環境を社会的に組織化していく働きが近代社会を駆動してきたことが<生-権力(or生-政治学)>という概念を軸にして捉えられていく(ように思われるがちょっと言いすぎだろうか)。
*以上で書いているのは、つまり、19世紀後半の「普遍人類学」という問いからの新たな展開として、20世紀後半の構造主義およびポスト構造主義を把握することができるということだ。そして、このような視点にたてば、レヴィ=ストロースが「構造人類学」という旗の下に何をしようとしたのか、あるいは何故ドゥールーズもフーコーもデリダもラカンもレヴィ=ストロースに対して愛憎の入り混じった評価と批判を行っているのかということをが結構理解しやすくなってくるようにも思う。
と、ここまで書いてきて、この文章が現代思想好きの人類学専攻の学生が書いた誇大妄想に見えるだろうことは百も承知である。そもそも、絶対的に知識が不足していることは痛感しているし、見落としている論点や潮流も沢山あるだろう。
しかし、ここで考えようとしていることは、「人類学」というものが人文社会科学においていかなる位置を潜在的には占めうるものなのかということだ。つまり、「普遍人類学」という問い(おそらくそれは最初に定義したものよりも、(α)、(β)、(γ)と表記した諸命題の間の軋轢と調停に関わる学問的営為として定義したほうが良いだろう)を人類学という営為の出発点に位置づけなおすことによって、人類学内部からみた人類学(そこにおいてレヴィ=ストロースは最も理解されにくく最も建設的な批判がされにくい存在である)と人類学外部からみた人類学(そこにおいてレヴィ=ストロースは最も理解しようとされ最も建設的な批判がされるべき存在である)と人類学外部においてなされてきた「人類学」(そこにおいてレヴィ=ストロースはしばしば偉大な仮想敵である)を、同時に見渡すことができるのではないかということだ。それは同時に、人類学という営為をその哲学的・形而上学的な根っこに差し戻して理解し直すことによって(例えばボルタンスキー&テヴノー『正当化の理論』等が社会学に関して行っているように)、20世紀以降における人類学を制約してきた諸条件の前提を掘り崩しその潜在的な可能性を再検討し、分析概念の形而上学的前提を炙り出しながらそれらの概念を再構成していくための試みである。(前世紀の人類学を支えてきた社会的条件が崩壊しつつある、この)21世紀に本気で人類学をやろうというのであれば、それをやらなければどうしようもないんじゃないかと以前から思っているだけだ。とはいえ、すぐにできることではないし、今書いてることも後から見てみれば色々間違ってるだろうし、全面的に展開する準備が整うまでには最低15年位はかかるだろうとは常々思っているけれども、まぁ忘れないうちに書いておくことにした。
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