生権力論をテーマとする研究会のML用に書いた文章を一部抜粋します。
目的としては、いくつか関連する議論を展開できそうな気もするので備忘のため。
注意事項としては、
(1)本稿における「贈与/交換」という用語法は、人類学内部においてオーソドックスな議論というよりも、モース以来の贈与論を解釈しながら現代思想系の論者がおこなってきた議論に依拠しています。とりわけ、今村仁司氏の贈与論(『交易する人間』など)を基本的な下敷きにしています。
(2)上の項目と関わりますが、本稿における<贈与的/交換的>関係とは、相互関係がその当事者を含む人々によっていかに感受され、理解され、概念化され、表象されるかに基づく分類です。そこでは、相互関係に関する人々の(時として想像的で神話的な)理解や表象自体が彼らの相互関係を規定するということが前提になってます。したがって、貨幣を媒介にした生産者―消費者関係においても、「贈与的」な関係理解がなされる(ex音楽家と聴衆)場合もあれば、非市場的な関係においても「交換的」な関係理解がなされる(ex学校教師が知的サービスの売り手として理解されるような昨今の状況)場合もあるということになります。
(3)全体としてかなり雑駁な論考であり、精緻な議論を展開するよりも今日の状況をなんらかの形であぶりだすことを優先させていますので、あらかじめ御了承下さい。精緻化は以後の課題です。
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この文章は一つの問いかけからはじまります。
それは、
「現在(特に70年代を一面の起源とする00年代初頭以降の社会的情勢において)、近代社会においてもその土台の一部をなしてきたと思われる<贈与的関係>をベースとする社会的関係領域が、極めて弱体化し、あるいは様々な形で<交換的関係>へと置き換えられていきつつあるように見えるが、それは何故そうなってきたのか、あるいはそうした動きについてどう考えればよいか」というものです。
多くの方には意味不明の概念が含まれているかと思われますので、まずは一つ一つ説明します。(注:以下は、贈与論に詳しい方にはまどろっこしい説明になりますので、そういう方は読み飛ばして②へ進んで下さい)
①<贈与的関係>と<交換的関係>
「贈与」ないし「交換」というのは、人類学の伝統的な分析概念ではありますが、非常に錯綜した議論蓄積があって、その全体を説明する力は僕にはありません。ここでは、簡単なモデルに落として話します。
まず、議論を人間同士の相互関係に絞ります(神や自然から/への贈与というのも大事な論点なのですが今回は省きます)。僕が<贈与的関係>と<交換的関係>とここで呼ぶものは、人間同士の相互関係を二つの類型に大別したものです。もちろん、あらゆる二分法がそうであるようにかなり大雑把な話になりますが、それは承知の上でとりあえず簡素化します。
ここで<贈与的関係>と呼ぶものは、人間同士の関係において一方から他方へと移動する<何か>が「贈り物」として把握されるような状況を範例とする関係であり、<交換的関係>と呼ぶものは、移動する<何か>が「売り物」として把握されるような状況を範例とする関係です。つまり、ここで言う「交換」は基本的に貨幣・商品・私的所有などを前提として概念化されるタイプの相互関係です。
「贈り物」と「売り物」の移動における違いとは何でしょうか。
まず、「贈り物」においては、贈り手と受け手の間に不均衡で非対称な関係が生み出されます。つまり、<何か>を与えられた者は、それ(あるいはその対価となる別の何か)をすぐに返すことはありません。誕生日プレゼントをもらって、その場で返したり、その代金を払ったりしてしまったら台無しです。少なくとも、その瞬間にその<何か>は「贈り物」ではなくなってしまいます。したがって、受け手は贈り手に対して何らかの「負い目」を抱えることになる。「贈り物」に対して、何かを返さなければならないとは思うが、それが何であるかはあらかじめ厳密に決まっていないし、返したとしてもその何かが最初の贈り物に対して等価であることを保障するような指標が存在しない。
これに対して、「売り物」の場合には、売り手と買い手の間の関係は平等で対称的です。Aさんは何かをBさんに渡し、それと等価な別の何かをBさんから渡される。交換が誰からみても等価であることを保障するための指標として機能するのが例えば貨幣です。指標によって計られた量(ex金額)を調整することによって、双方が自分にとって有益と思われる<何か>を得ることになる。交換の場合、関係を取り持つ両者は<何か>の移動によって、各自の自律性や独自性を失うことはありません。しかし、贈与の場合は<何か>の移動にもとづいて両者は多かれ少なかれ相互依存的な関係を取り結ぶことになり、それに規定されるようになるわけです。
また、等価性を保障する指標が存在しないため、贈り物の返礼もまた贈り物となります。つまり、Xを贈ったらYを返された、そうすると、また何かを返さなければならないからZを贈る、そうすると今度はWを返される、というように、行為が連鎖していってしまい、留まることがない。<贈与的関係>はいわば永遠に均衡状態に至らないシーソーのようなものになるわけです(簡略化するために、ここでは二者関係で説明していますが、こうした贈与の連鎖は複数の人間や集団間に拡張することは十分ありえますし、贈与連鎖の拡散に基づいて広範に組織化される社会関係というのは、人類学が対象としてきたような社会に関してしばしば指摘されてきたものです)。
さらに、これはモース以来さんざん言われてきたことですが、<「贈り物」は贈り手のもとを離れたあとも贈り手の人格の一部を宿している>。これは受け手からみれば、「あなた(贈り手)のモノ」が私のもとに移動してきても、それが完全に「私のモノ」になることはない、ということです。誕生日プレゼントが気に入らないからといってその場で捨ててしまったら、確実に贈り手に対する悪意の表明として受け取られるでしょう。それは、面とむかって悪口を言うことと同じように、相手の人格を攻撃することだとみなされるわけです。贈られた何かは、<一時的に私のモノとなったあなたの持っている何か>であり、その「あなたが持っている何か」が「あなた」の人格の一部を構成していると見なされる場合、確実にそれは「あなたの人格の一部を宿している」わけです。
「所有物と人格は別ではないか」と思われるかもしれませんが、こうした考え方は私的所有権が確立した近代以降に普及したものにすぎませんし、両者を厳密に分離することは現在でも常に容易ではあるとは限りません。例えば、明日なぜか大学院の院生仲間が僕に100万円あげると言い出したとしても僕は喜んで受け取ることはないでしょう。まず困惑すると思います。というのも、彼の銀行口座に100万以上の残金があったとして、そのお金は彼の資質や努力や苦労の末に研究をやってきたことの対価として獲得したものであると僕は捉えるだろうからです。つまり、僕にとってその100万円はなんらかの形で「近彼を彼たらしめてきたもの」とつながっている限りにおいて、それは彼の「人格の一部を宿している」わけです。これに対して、僕がコーナンに行って軍手を100円で買う時には、それは誰の人格も宿してはいません。売り手であるコーナンの社長や店員と買い手である僕の間には完全な人格の相互自律性が保たれています(少なくとも通常はそう想定されます)。
つまり、<交換的関係>が、相互の人格の独立が侵害されないものとして構成されるのに対して、<贈与的関係>は相互の人格の独立が侵害され、互いに互いの人格の一部を持ち合うことによって成り立つものであるわけです
(注:「人格」という言葉を乱発しましたが、これは人類学独特の用語なので困惑された方もいるかもしれません。とりあえず、この文章においては「人格の一部」=「その人をその人たらしめているものの一部」という感じで押さえておいて下さい)。
②近代/現代と贈与
ここまでくれば自明なことと思いますが、<贈与的関係>は近代的な理念とはことごとくバッティングするものです。「私的所有」だけでなく、自由や平等や権利といった近代的理念にとって、<贈与的関係>は明確に排除すべき敵となります。なので、例えば「賄賂」や「談合」といった現代における贈与の模範例は常に法的にも倫理的にも糾弾されるわけです(軍事関連企業の社長が防衛省の役人にお金じゃなくゴルフ接待や貴金属を「贈る」というのは、贈与的関係の樹立という側面からみれば非常に理にかなったものです)。特に日本の場合、「近代化」とは<贈与的関係>をベースにしたムラ的な共同性のあり方をあらゆる公的な領域から排除していくことを意味してきたとも言えそうです。
とはいえ、近代社会においては全ての贈与的関係が排除されていて重要な社会的役割は何一つ果たしていない、ということはないと僕は考えます。
注1:もちろん、近代社会においては、全ての社会関係の中心軸として贈与が据えられるという事態は排除されてきたと言えるでしょう。ただ、贈与と(商品)交換の二分法を、共同所有/私的所有の二分法と同一視した上で、前近代/近代の二分法と重ね合わせ、近代社会の病理の源を贈与の廃絶に見出す今村仁司さんのような論法は、僕には行き過ぎと感じられます(今村さんの場合、なんらかの形で贈与的共同性を復活させることが、マルクスの共産主義革命という理念の復権という形で構想されているようなところもあります)。というのも(これは今村さんも指摘していることのようにも思えるのですが)、贈与と交換という二項は一方がなくなれば他方だけになるような単純な関係にはなく、むしろ贈与のなかにも交換が含まれているし、交換のなかにも贈与が含まれているような理論的に錯綜して相互依存的な概念対だと感じるからです(例えば、「もらったものはいつか返さなければ」という態度のなかに理念的な等価交換への傾きが感じられるように)。
注2:アーレントが論じた古代ギリシアにおけるオイコス=エコノミーも、(今村さんによれば)贈与ベースの関係領域です。なので、近代において政治の対象としてオイコスが前景化したというアーレントの主張を鑑みれば、近代とは<贈与的関係>の追放によって成立したのではなく、<贈与的関係>の広範な表面化と抑止と置き換え(あるいは「排除と包摂」?)によって成立してきたというようにも考えることができるようにも思います。アガンベンが指摘したように、アーレントが公的=政治的領域へのオイコスの侵入として捉えた事態は、フーコーが生権力という概念によって論じた事態と対応するものと考えることができますから、このあたりに生権力論と贈与論をつなげる回路が眠っているのかもしれません。
近代的な社会においても依然として重要な役割を担う<贈与的関係>ベースの領域ではないだろうかと僕が以前から感じてきたのは、「家族」、「医療」、「教育」の三つです(あとは政治家の活動の場という狭い意味での「政治」も入るでしょうか。数十年前までは、職人の世界や学問の世界に見られた「徒弟制」も大きな社会的役割を担っていたと言えるかもしれません。会社における「上司-部下」関係というのも、以前は明らかに贈与的関係だったように思われます。現在では介護とかケアというのも重要な領域かもしれません)。
「家族」の場合は分かりやすいと思いますが、子は親から命を「与え」られ、養育という形での贈与を受け続けます。両者の関係はつねに不均衡で非対称的であり、人格の相互独立性を常に保つことは原理的に不可能です。同じことは、多かれ少なかれ恋愛関係についても言えると思います。
「医療」の場合は、とりわけ生死が関わる局面において、医者と患者の関係というのは非対称的です。確かに治療費という対価を支払ってはいる。しかし、医者の治療が患者の命を救うとき、患者は医者が「与えてくれたもの=自らの生存」に対して等価なものを返すことはできません。そうした行為の可能性そのものを医者に与えられてしまったわけですから。こうした場合、治療費は医療行為に対して等価なものとはなりえず、患者は医者に対して「負い目」を抱えるわけです。
「教育」の場合は、「教える―学ぶ」という関係は基本的に非対称的なものです。教師が生徒に知識を「授ける」という過程は、生徒の人格形成の過程そのものですから、教師に対して生徒の人格は独立していません。生徒は教師から一方向的に「知識の習得」という贈り物を与えられますが、商品のようにそれを自分が欲しいかどうかを判断しそれを獲得するために払っても良いと思われる対価を提示して教師と交渉するということは許されません。というのも、そうした自分に必要なものを判断し他者と交渉するために必要な力をつけるということ自体が、教師が生徒に「贈る」ものであるからです。とはいえ、こうした教育観はもはや崩壊しかかっており、教師の与える知識は、単なる商品であるという考え方の方が一般的になりつつあるようにも思えます。
注3:この三つの領域には、相互行為を担う片方の行為者の有様や存在の如何自体にもう片方の行為者が直接介入するということが避け難いという共通項があり、それがこれらの関係領域において「贈与的」な関係理解がなされやすいことの根拠となっているように思われます。贈与という関係理解は人間同士の関係だけではなくて、それに先行するものとしての神と人間の関係にその源泉があるというのはよく言われることです。そこでは、「自らの存在自体が他者によって与えられてしまった」という根源的な負い目が儀礼や宗教実践を通じて概念化されてきたということになるわけですが、上の三つの関係領域というのは、近代社会においてもそれに近い極端な非対称性が想定されてきた関係領域なのではないかということです。また、これらの領域は、生殖・生存・成長という人間の生命(ゾーエ)にとって重要な拠点を扱うものです。ここにはまた、贈与的な関係理解がゾーエとしての人間の有様に深く関係しているということを支点にして、生命を主題とする権力に焦点をあてる生権力論と贈与論を結びつける回路が存在するようにも思えます。
ちょっと先走りましたが、教育現場にみられるような<贈与的関係>の弱体化や危機あるいは<交換的関係>への置き換えとそれによる軋みといった事態は、「家族や「医療」にも生じているように思います。例えばDVの頻発は、家族関係さえも自由で対等な個人間の関係として把握しようとしたときに再び顕在化する贈与的関係の暴発であるように思います。また、例えばインフォームドコンセントは、医者に身を委ねるのではなく、自己責任において治療を承諾することを明確化しようとするものであって、明らかに贈与関係を排除するものだと思われます。
別の側面から言えば、近代社会において<贈与的関係>がベースとなっている関係領域には常に「贈り手の神聖視(上方差別)」と「スキャンダル」がつきまといます。医者も教師も社会的尊敬を集める職業であると同時に、常に醜聞を嗅ぎ付けられ社会的糾弾を受けやすい(金儲けしか考えない医者、生徒にわいせつ行為を行う教師)職業です。贈り手に対する人々の尊敬は、彼らが持っている<交換的関係>を越えてしまう力に対する人々の恐れと表裏一体であり、だからこそ神聖視と糾弾を社会的に組織することを通じて、こうした<贈与的関係>が<交換的関係>を中心とする近代社会の中でなんとか維持されてきたのではないかと思われます(もちろん、そのためには、贈り手自身が彼らに向けられる人々の尊敬や糾弾を特殊な職業倫理として内面化することもまた必要となります)。
そして、僕が最初に問いかけたかったことは、こうした<贈与的関係>をなんとか支えてきた(倫理的および制度的な)仕組みがどんどん弱体化してきたように見えるんだが、そりゃ一体何故であって、そのことをどう考えれば良いんだろうか、ということです。
「何故か」という点に関しては、そんなに難しくはないようにも思います。簡単にいってしまえば、個人の自由や平等や社会の透明性をより向上させていこうとした結果、その障害となる贈与ベースの関係をどんどん排除していったということじゃないかと。さらに、こうした動きは、前回の檄文で僕が広義のネオリベラリズム(自己規律化、オーディット文化、グローバル市場経済の複合体)と呼んだものによって強烈に展開されていってるようにも思います。この複合体の肝となるオーディット文化というのは、要は個人や集団間で取り結ばれるあらゆる相互関係において――市場交換における貨幣がそうであるような――客観的で普遍的な指標を機能させようとする運動です。そこでは、あらゆる相互関係が、商品交換のように、相互の人格的独立性を保ったままで、双方にとって適切な利益が得られるようになることが目指されますし、個人的で状況依存的な関係とりわけ賄賂や談合や血縁優遇や師弟関係のような贈与的関係を排除することが目指されるわけです。
③最後に
念のためいっておきますが、僕は「贈与は素晴らしい」とか「贈与関係ベースの社会を作ると世界は平和になるのだ」などとは全く思いません(そういうのは主張として現実感がないというよりも、単純に贈与という現象を誤解した物言いだと感じます)。ただ、<贈与的関係>というものは、はたして綺麗に排除できるようなものなんだろうか、と思うわけです。どんなに上手くシステムを作ったとしても、どこかに思いがけない歪みができるのではないだろうかと。
最後に「近代社会においても<贈与的関係>をベースとして維持されてきた社会的関係領域が現在では極めて弱体化しつつあり、あるいは様々な形で<交換的関係>へと置き換えられていきつつあるように見えるが、そうした動きについてどう考えればよいのか」という問いが残るわけですが、この点については僕は大したアイディアを持っているわけではありません。いまのところ思いつくのは、注の1から3で書いたような論点だけです。<贈与/交換>概念を相互排他的ではない形で概念化しなおすという方向と、生権力論と関連づけながら「排除と包摂」というような形で贈与という近代の「外部」とされてきたものをむしろ近代に内在的なものとして捉えなおすという方向です。うーん、なんか弱いですねぇ。すいません。そもそも現状認識として妥当なのか、もっと的確な言い方があるのではないかとも思いますが、もろもろあわせて御意見御批判いただけると有り難いです。
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この後、研究会ML上ではそれなりに議論が盛り上がり、書いた本人としては嬉しかったものの、やはり自分の議論にそもそも色々な点で不備があるということを気づかされました。
とりわけ、今村仁司や柄谷行人といった論者が展開してきた贈与/交換論にはどこかで、贈与/交換という概念対を、マルクス主義における前資本主義的な共同性(共同所有)と資本主義的な共同性(私的所有)に重ね合わせながら、「近代が廃絶させた贈与をどうにかして再興すべきだ」という主張が含みこまれているように感じられるし、そして、この点が、本稿のような視点から現代社会を考える上での制約をなすのではないかと思われます。
つまり、贈与を(市場)交換の対極にあるものとしてみなすことが、この種の議論を分かりやすいものとしているわけですが、しかしそのことによって議論が冷静な分析から情熱的な思想表明へと次第に変わってしまうという傾向があるように思われる、ということです。言い換えれば、事態を丁寧に見ておけば、必ずしも近代が贈与を廃絶したとは言えないし、むしろ「排除と包摂」と言えるような諸実践によって「贈与的関係」を内在化しているようにも見えるわけです。
この論点から導き出される今度の課題としては、やはり「贈与/交換」という概念対自体を新たに考察しなおす必要があるということに行き着くのではないかと思います。両者を、一方を消し去れば他方が残るといったようなものとして捉えるのではなく、一方を改変しようとすれば、他方も改変されざるをえなくなるような相互依存的な概念対として捉えること、あるいは両者の働きを統合的な視点から把握できるような分析視角を作っていくことが次に必要となる。それは同時に、現代の社会的状況を単に「交換的関係による贈与的関係の置き換え」と捉えるのではなく、むしろ贈与的関係の「排除と包摂」が新たな局面に入りつつあるという形で考える必要があるということも含意しているように思われます。
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