以下はまぁ思いつきです。
ファミレスで女の子2人組みが「KKY」という言葉を使ってた。
なんとなく話を聞いてると、「KY(空気読めてない)」の進化系らしい。
じゃ、「KKY=極めて空気読めてない」(①)とかかなって思ってたら、
「KKY=究極のKY」(②)なんだそうだ。
面白い。
①と②を比べると、後者の方が次元が一つ多い。
つまり、
①では、<極めて・空気・読めてない=K・K・Y>だから、日常語領域に対して略語としての若者言葉領域が重ね合わされている。つまり、次元は二つ、という点で<空気・よめてない=K・Y>から別に変わっていない。
②では<究極の・[空気・よめてない=K・Y]=K・K・Y>だから、日常後領域に対する若者言葉領域の重ね合わせを所与の前提として、さらにもう一つ次元が加わってる。つまり、次元は三つ。
こっから先は推測だが、①の用語法ではなく②の用語法を用いることによって、<空気・よめてない=K・Y>という重ねあわせによって成立するリアリティを前提としたさらなる操作が図られている。三つめの次元というのはそういうこと。
なんだかカヴァイエスの理念化と主題化(のどっちか?)の話に似ているような気もする。①の段階では操作の結果だったもの(=KY)が、②の段階では操作の対象になっているという点で。あるいは、ANTやプラグマティズムや浜本満の議論なんかに感じる、「何かが真理である(あるいは何かを信じる)とは、それを前提にして初めて可能であるような操作や行為が効果的に行われているということに他ならない」といった考え方にも近いのかもしれない。この二つの考え方は多分厳密にはバッティングするんだが、どうも個人的には結び付けれるような気もする(簡単ではないだろうが)。
Comments