ふたつの要素間の類似性にもとづく比喩、つまり隠喩(メタファー)の教科書的な定義は以下のようなものである*
*より正確には類似性にもとづく比喩のうち、「~のような」「~みたいな」といった表現を伴う場合は直喩(シミリー)、伴わない場合を隠喩と呼ぶらしいが、ここでは両方とも一括して隠喩とよぶ。
隠喩には、「喩(たと)えるもの」と「喩えられるもの」が何らかの点において類似していることが必要だが、それだけでなく、前者に具体的でよく知っているものが用いられることによって、後者に伴う未知なものや抽象的なものや分かりにくいものが理解され説明される。
例えば、「君の瞳はダイヤモンドだ」という比喩の場合は以下の図式のようになる。
<喩えるもの=ダイヤモンド> → <喩えられるもの=君の瞳(の綺麗さ、希少性)>
:具体的・既知 :抽象的・未知
この場合、<喩えるもの>の方が<喩えられるもの>よりも理解されやすく馴染みのあるものであり、この表現を聞いたものは前者についての自らの理解に頼りながら後者を理解することになる。つまり、理解の方向=ベクトルは<喩えるもの>から<喩えられるもの>へと向かう。例えば小説において「彼女の瞳はダイヤモンドのようであった」という表現があった場合(そんな一文は確実に凡庸な作品かひねくれたメタフィクションにしか登場しないだろうが)、読者は未だよく知らない登場人物=「彼女」の外見を、ダイヤモンドというよく知っているものによって理解する。もちろん、我々が果たしてダイヤモンドというものを「よく知っているのか」という疑問はすぐに出てくるのだが、少なくとも教科書的な説明では以上のようになっている。
しかし、実際に個々のメタファー使用の事例を調べてみると、こうした教科書的な定義を逸脱する比喩の用法を発見することは難しくない。とりわけ、小説における比喩の使用においては、作家それぞれの個性の核ともなるような様々な洗練をみることができる。
例えば、村上春樹「品川猿」(短編集『東京奇譚集』収)には次のような一文がある。
「名前を失った人生は、まるで覚醒の手がかりを失った夢みたいに感じられる」(p148)
この物語は、主人公の女性が「ときどき自分の名前が思い出せなくなった」(冒頭の一文)という出来事から始まる。上記のセンテンスは、冒頭から彼女がどのような人物であり、どのように名前を思い出せなくなっていったかという経緯を描いた後に登場する。このセンテンスの後の段落では、こうした状況に対して彼女がどのように対処していったのかということが語られる。つまり、この一文は、物語の状況説明から最初の展開部へと至る狭間に置かれていることになる。
そしてこの一文は、前述した教科書的な表現とは多分に異なる比喩表現となっている。まず、ここでは<喩えるもの>は「覚醒の手がかりを失った夢」であり、<喩えられるもの>は「名前を失った人生」であるわけだが、「君の瞳はダイヤモンド」とは反対に、前者は後者と比べてより具体的ではない。「覚醒の手がかりを失った夢」を具体的に経験しているものとは、つまりずっと眠っている人に他ならないし、彼らはこの文章の読者にはなりえないのだから(なにしろずっと眠っているわけだから)、あらゆる読者にとってこの表現は具体的な経験に対応するものではありえない。対して、「名前を失った人生」はより理解しやすいものである。自分の名前が思い出せないというのは認知症(ぼけ)等の症候でもあるし、誰にも自分の名前を呼ばれない(役職や役割のみで認知されて名前と結びついて認識されることがないような)状況が長い間つづくというのは時々あることではある。
したがって、この二つの要素の間に類似性を見出そうとするならば、より具体的な<喩えられるもの>をもとにより抽象的な<喩えるもの>を理解するという、教科書的な比喩の図式とは逆の運動が第一に生じることになる。
①
<喩えるもの=覚醒の手がかりを失った夢> ←<喩えられるもの=名前を失った人生>
:抽象的 :具体的
この時、<喩えるもの>と<喩えられるもの>の間には簡単な類似性を見出すことはできないが、むしろそれによって簡単でない類似性を推論することを読者に喚起し、より豊富な情報をそこから引き出すことが可能となっている。まず第一に、<喩えられるもの>においては、[名前を失っている/名前を失っていない]という二項対立によって「人生」という領域が区分けされている。第二に、この[名前を失っている人生/名前を失っていない人生]という区分が、<喩えるもの>の「夢」に関わる領域に重ねあわされる。すると、この領域は、「覚醒の手がかり(=名前)を失ってずっと夢の中にいる状態」と「覚醒の手がかり(=名前)を得て夢からさめて現実世界に戻れる状態」という二つの下位領域に区分されることになる。ここで重要なのは、「名前」が名詞であるのに対して「覚醒」が動名詞であるというズレによって、<喩えられるもの>から<喩えるもの>に移行するなかで運動(=覚醒する)という含意が生じることであり、また、「名前を失う/失っていない」人生という二項対立が、具体的な二項対立のない<喩えるもの>の側に投射されることによって、<喩えるもの>の側にはもともと現前していなかった「(夢ではなく)現実の世界」という含意が生じる(あるいは強調される)ということである。
②
このように、再形成された<喩えるもの>から今度は通常の比喩の定式どおりに、<喩えられるもの>へのベクトルが生じる。つまり、読者は①の段階ではより具体的な<喩えられるもの>を頼りにしてより抽象的な<喩えるもの>を理解したわけだが、今度はそのようにして理解された<喩えるもの>を頼りにして改めて<喩えられるもの>を理解しなおすことになるのである。
<喩えるもの=覚醒の手がかりを失った夢> → <喩えられるもの=名前を失った人生>
この段階では、<覚醒の手がかりを失って夢の中にいる/覚醒の手かがりを得て現実世界に戻る>という区分(および前者から後者への運動)が、<喩えられるもの>の領域に重ねあわされる。すると、<喩えられるもの>は「覚醒の手がかり=名前を失って夢の中にいるような人生」と「覚醒の手かがり=名前を得て現実世界に戻った人生」という区分(および前者から後者への運動)によって再組織化されることになるのである。
以上で述べたような一連の循環的な手続きを経ることによって、名前を失った主人公の<人生>は、「夢の中にいるような状態」と「夢からさめた現実的な状態」に区分されることが示唆されると同時に、主人公が前者の状態にあること、また、彼女が前者から後者の状態へ移行するためには覚醒の手がかりとしての「名前」を回復することが必要であることが示唆されるのである。そして、この物語の全体はこれらの示唆の通りに展開されていく。つまり、主人公の人生は名前を失ったことでどこかしら夢のような出来事に満ちたものになり、夢からさめる手がかりとしての名前の回復が追い求められ、そして名前が戻ってくるなかで主人公が人生をよりリアルなものとして生きなおすようになるところでこの物語は終わるのである(詳細についてはネタばれになるので表記しない。非常によくできた短編なので、興味のあるかたは作品本体を読んでいただきたい)
重要なのは、以上のような図式が読者に「示唆される」といっても、それは明示的・意識的なものではないということだ。それはあくまでさりげなく、いわば無意識的な記号形の配列*として読み手の記憶に刷り込まれ、それ以降の物語の展開への呼び水(伏線)として機能する。つまり、この比喩表現が存在することによって、その後主人公の周りで生じる多分に非現実的な=夢のような出来事についても、名前が回復される過程の劇的である種異様な変化についても、読み手は受け入れやすくなる(少なくともそうした効果が期待できる)ということである。
*この言い方についてはいずれどこかで詳述したい。ただ、簡単にいえば「ある記号の性質や働きはその記号と他の複数の記号が織り成す関係によって生じる」というソシュール記号論の定式からは、明確に意識化されたある記号の意味や性質は、相対的に意識化されていていない他の記号との関係によって暗に規定されているという帰結が生じる。こうした契機を、記号論的な無意識の働きと呼ぶことはそう突飛なことではないだろう)
以上の分析から引き出せるメタファー論における重要な論点としては、<喩えるもの>側の概念領域と<喩えられるもの>の側の概念領域にはあらかじめ類似性や相同性が存在するのではなくむしろ仮設されるのであり、それによって両者の間に相同性を樹立する役にたつような様々な情報がよびおこされ、呼び起こしを通じて二つの概念領域がそれぞれ新たに形成されていくということである(そして、この論点はもちろん、私が常々強調してきたレヴィ=ストロースのトーテミズム論の眼目でもある→久保明教「レヴィ=ストロース×スペルベルの象徴表現論」)。また、こうした幅の広いコンテクストの呼び起こしが、たんに語と語の間の関係ではなく語と語の関係(つまり文)と語と語の関係の間に比喩的関係を設定するというメタ関係論的な記号使用によって可能になっていることも、レヴィ=ストロースの議論とつながるところだ(参考→神話論理とは何でありうるか)。
ほぼ同じことを繰り返すことになるが、村上春樹がしばしば活用するこうした比喩の特徴は、小説製作における技法としては以下の三つの特徴をもつ。
①具体的なもので抽象的なものを喩えるのではなく、その逆をやることによって、<喩えるもの>と<喩えられるもの>の間に相互循環的なベクトルが生み出される。
②語と語ではなく、文と文を使って比喩関係をうちたてる。あるいは、異なる概念領域に属する記号の系(シンタグマ)を重ねあわせた上で(パラディグマの形成)、両者それぞれの一部分をとってきて、新たな記号系(シンタグマ)を生み出す(ex「彼女が79年間抱き続けた夢はまるで鋪道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何一つ残らなかった。」『風の歌を聴け』p10)。
③小説内のある要素に対して個別に比喩をかけるのではなく、その要素が小説全体において(あるいは小説のその部分において、ないし、主人公の心性やその場の雰囲気にとって)もつ意味に対して比喩表現(=「喩えるもの」)が用いられる。これは村上春樹だけでなく、多くの作家が頻繁に用いている手法だと思われる。
前述した「名前を失った人生は・・・」の一文は、このセンテンスのみによって物語全体の構図を潜在的に配置しつくしているという点で極めて例外的な比喩表現であり、この作家が比喩的な記号操作に関して破格な能力を持っていることを(おそらく本人はある程度無意識のまま行っているのだろうが)示しているようにも思われる。