考察をまとめてみたものの、やっぱりまだまだ方向性がはっきりしない。とはいえ、色々と新たな発見をあったのでとりあえずよしとするか。
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本書(『神話論理』シリーズ)は評価の難しい本である。それは、著者レヴィ=ストロース(以下L=S)の議論が不十分であるというよりも、膨大な記述を費やして彼が何をやっているのか、何をやろうとしているのかが判然としないことに由来する。
『神話論理』に関するオーソドックスな理解は次のようなものだろう。すなわち、一見して非合理的で無秩序に思われる個々の神話のあいだに様々な<変形(構造変換)>を通じた論理的関係があることを明らかにし、それによって、全ての神話は、自然(連続)から文化(非連続)への移行という同じテーマを変奏しているのであり、両者のあいだの矛盾や不均衡を調停することが神話の役割であることを示した[小田亮2000:159, 205]。
確かに、L=Sの分析の中心となるのは諸神話間の<変形>というアイディアであり、実際、本書中のほとんどの記述は、ある神話(群)が別の神話(群)を<変形>したものであることを論証するために割かれている。「神話の大地は丸い」という著名なフレーズに関しても、その内実は、南北アメリカ大陸に広がる膨大な神話群が<変形>の連鎖によってひとつながりに形成されているということに他ならない。
しかしながら、この<変形>という概念こそが本書の評価と理解を困難にしてきた要因でもある。L=Sが、「ある神話aは別の神話bを変形したものである」と述べる時、それは、神話aを語る部族Aが地理的に離れた部族Bが語る神話bを詳細に知った上でそれを改変して自らの神話としたということを前提としていない。というのも、南北アメリカ大陸のある集団が語る神話が他の全ての神話を語る集団に細部まで知られているということはありえないにも関わらず、L=Sが神話間の細部に至る<変形>を見出す時、それは特定の(伝播が実証可能な)地域内に限定されたものでは全くないからである。では、<変形>は誰によって/いかにして行われるのだろうか。それが神話を語る個々のアメリカ先住民部族の人々ではありえないことはL=S自身が強調していることであるが(1)、その代わりの答えを彼が明晰に提示いるとは残念ながら言えない。かろうじて、「神話的思考」や「精神自体と対面している人間精神」等といった(神話論理Ⅰ:18)曖昧なフレーズが聞かれるのみである。
と、ここまでは割とオーソドックスなタイプの批判だと思う。ここでは、まずL=Sが活用する独特の記号論について検討した上で、<変形>概念の内実を明らかにし、<変形>の論理、ひいては「神話論理」とはいかなるものでありうるかのを検討したい。
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周知の通り、L=Sは構造言語学だけでなくソシュール記号学からも多大な着想を得ている。とりわけ、項同士の関係が各項の性質や機能を規定するという関係論的な記号理解からの影響は甚大である[Cf 神話論理Ⅲ:301]。すなわち、ある要素aの意味や働きは、aと他の要素との関係(a:b:c:d:…)によって決まる。こうした記号理解に、L=Sは構造言語学由来の「対立」というアイディアを接続する。実際、関係による規定が極めて明瞭になるのは、複数の項が対立関係に置かれている時(a/b)である。例えば、「好き」という言葉は多くの場合「嫌い」という言葉との対立関係によってその働きを規定される。さらに、両者の対立が前提となる時には、一方の項を明示的するだけで、他方の項(との関係)が暗に示される。したがって、ある種の恋愛的状況においては、「あなたなんか嫌い」という言葉が、「でも実は好き(かもしれない)」という内容を仄めかすものとなりうる。
そして、L=Sが神話間の<変形>を論証しようとする時には、まずもって一方の神話に登場する要素が他方の神話に登場する要素と対立の関係にあることが探りあてられるのである(ex「空からくる水/大地からくる水」、「害をなす水」/「善をなす水」第Ⅰ巻:74)。
つまり、L=Sが<変形>という言葉で指しているのは、ある神話Xで特定の要素aが用いられる時、それが別の要素bとの関係(対立・相関・相同)によって規定されているという事態であり、そうである限りにおいて、<変形>を語るために、神話Xを語る人々が要素bを用いる神話Yを細部まで知っている必要はないのである。
ただし、単純な二項関係を根拠にしてのみ<変形>が主張されることは稀である。むしろ、L=Sが基本的に用いるのは「諸関係(複数の[項同士の関係])の関係が、各関係および各関係内の各項を規定する」というメタ関係論的な記号論である。つまり、ある概念領域における諸項同士の関係(a:b:c・・・)自体が一つの項となって、同じく一つの項となった他の概念領域における諸項同士の関係(α:β:γ・・・)と関係することが想定されるのである。換言すれば、aとbの関係がαとβの関係に重ねあわされ、「aとbは、αとβが関係するように関係する」のであり、これはL=Sのトーテミズム論の基本論旨(自然種αが集団Aのトーテムとしての機能を持つのは、Aと集団Bの関係とαと自然種βの関係の間の関係によって規定されるからだ=A:B::α:β)と全く同じ形式である。
L=Sの神話分析は、以上の意味での(諸関係間の)関係を、①同一の神話の各部の間や、②神話と神話外の現実の間や、②複数の神話の間にみいだし、それを「変形」の関係と呼ぶことで成り立っている(ちなみに、ある項(a)が別の項(α)の逆転とされる時には、多くの場合、諸関係自体が重ねあわされている(a:b::α:βかつb/β)ことを確認した後にそれが確証される)。
①同一神話の各部の間において
Ex三巻p341
<太陽/コヨーテ::ワシ/クズリ>
「地の生物であるクズリと天上界の鳥であるワシとの対立は、規模は小さいながらも、天の、照らすものである太陽と、地下の世界で太陽と同じ役割を果たしていると自称するコヨーテとの対立と同じ」である。=太陽とコヨーテは、ワシとクズリが関係(対立)するように、関係(対立)する。だからこそ、この神話内でコヨーテとクズリは、ワシ狩りに使う輪差を用いて(=あたかもワシであるかのようにみなして)太陽を捕獲する。
②ある部族の神話とその部族儀礼や社会的慣習の間において
Ex三巻p329
人の娘:カエル (神話M430bに登場する月と太陽の妻)↓
::薄い肉片:厚い肉片 (同じ神話で二人の妻が食らう贓物の種類)↓
::けむくじゃら:なめらか(バイソンの胃の特性[動物学的対立])↓
::毛皮の表:毛皮の裏(外套となったバイソンの毛皮の特性[技術的対立])↓
::毛皮の表を表にする:毛皮の裏を表にする(外套を着る方法の種類[服飾的対立])↓
::自然:文化(二つの外套の着方が社会的に持つ意味[社会学的対立])
→「したがって、なめらかなものである厚い肉片を選んだカエルの誤りは、太陽の客であるときの正しい選択は自然の方に向けられなければならなかったのに、文化の側を選んだことにあるのかもしれない」(p330)
*ここで重要なのは、最後に重ねあわされる概念対(自然/文化)が、それまでの各概念対からより抽象的なレベルでの対立になっており、そこから神話に描かれた対(カエルの方の妻が薄い肉片を食べる/人間の方の妻が厚い肉片を食べる)が理解されるということである。L=Sの分析の多くは、二つ以上の概念領域(あるいはシンタグマ)を重ね合わせ、それらを抽象化することで各概念領域の「意味」を取り出す操作に依拠している。①の例においてもワシ/クズリと太陽/コヨーテが重ねあわされることで、天空/地上というより抽象的な概念対が浮かび上がる。こうした抽象化によって、複数のエピソードや神話や儀礼等を相関的なものとして捉えることができるようになるのである。
③異なる(地域の)神話間において
Ex三巻p505
結婚を控えた若い女:ヤマアラシを手段に地上から天上へ(M460)
/ 結婚を控えた娘の母:ヤマアラシを目的に天上から地上へ(M503)
この三つの手法を組み合わせ、さらには二項対立の派生形である三項および四項関係(A/Bであり、第三の項CがAB両項の特性を合わせもつ時、CはA/Bの媒介項となる。A/Bであり、Bの下位要素b1とb2がAとBと同様に対立する時、A/B::b1/b2)を加えることで、膨大な神話群の間に<変形>関係を見出すことが可能になる。というのも、ある神話Dの内部に見られる諸関係と別の神話(ないし儀礼)Eの内部に見られる諸関係の間の関係が確認され(→それを抽象化して神話群が特定される)、また後者と神話W内の諸関係とが関係することが既に確認されている時には、神話Dと神話Wの間の関係(対立・相関・相同)を<変形>と呼ぶことができるからだ。さらに、DとWに両者を関係づける抽象的な関係項が重ねあわされることで、両者が共通して持っているメッセージ(記号体系)を取り出し、さらにそれをもとに他の神話群との関係を探求することが可能になる(ex M475c とM503[初潮を迎えた女/びっこの女]::[かみなり鳥の移動/びっこのかみなり鳥の妻]::<周期性/びっこ>→びっこは(生理的ないし季節的)周期性の欠如を表す)。
3 感覚的なものの論理
以上の検討から示唆されるのは、L=Sが南北アメリカ大陸を縦横無尽に往還する神話の<変形>運動として描いたものが、実際にはこの地域の人々がそれぞれ部分的に関与する記号(概念)体系の複合体に他ならないのではないかということである。例えばある地域の神話群Xがa:b:c…という記号系列を軸にして構成されており、そこから遠く離れた別の地域の神話群Yがe:f:c・・・という記号系列を軸にして構成されているとしよう。そのとき、両方の系列が別々により抽象的なα:β・・・という記号系列との関係を前提にしているならば、神話群XとYの間の関係を見出すことができる。Xの地域の人々がe:f:c・・・という記号系列に馴染みがなく、あるいはその諸要素を全く知らない(exヤマアラシ本体も針も不在)場合でも、それは可能である。
↓以下、疲れたため箇条書き↓
・普遍と個別のグラデーション
「人間本性と文化の多様性を両立しえぬ二つの観念として対立せしめる代わりに、彼(=レヴィ=ストロース)は前者が具体的で変異に富む表れを支配する抽象的かつ等質的構造として、後者の底に横たわることを示そうと努力を傾けた。この原理は新しいものではない。それは人間本性にかんする古典哲学においては、既知の事実に見なされていたのである。しかし現代の民族誌上の知見はそれを再び批判にさらした。この原理を取り戻し、民族誌の挑戦に応じながら文化の個別性をよりよく理解すると同時に人類の知的単一性の証明を試みること、これがレヴィ=ストロースが自らに定めた任務である」[スペルベル1989:139]
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では、南北アメリカ大陸において遠く離れた地域の神話が<変形>関係にあることは、「人類の知性の単一性」を示しているのだろうか?
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いやむしろ、ここでL=Sが、構造的思考こそ「今日唯物論的色彩を守っている」(第Ⅰ巻:41)と述べていることや、神話的思考を「感覚的なものの論理」から出発するものとしている点を思い返すべきである。
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「感覚的なものの論理」とは、つまり、神話の<変形>の担い手たる神話的思考が、人間と自然環境の相互作用において生じる基本的な形式性に依拠することを示唆している。
:ex例えば人間との関係において自然が分節化される限りにおいて、天空は「遠く」、地上は「近い」。つまり、人間が鳥等とは違い地上の生物である限りにおいて、<天/地::遠い/近い>という諸関係の関係は人間生活の極めて基本的な形式性に他ならない。加えて、水は天空にも地上にもあることによって<天/地>の対立を媒介する。したがって、L=Sの言う「傷つきやすい渡し守の挿話」を含む神話群と、「月と太陽のカヌーの旅」の神話群は、地域が異なりながらも、<天/地>の対立を媒介する水との関係において<遠いこと/近いこと>の対立を媒介しようとする点で同型であり、ただ媒介の具体的な担い手となる記号系列が異なるだけである(第Ⅲ巻:513~。ただし、実際のL=Sの分析は前者の神話を語るマンダン族の洪水に備えた夏の村における「大いなる舟」をめぐる[動かないカヌー/動かない村]の対立を、後者の神話群における[動くカヌー/動かない水]との逆転関係におくなどして、より補強され記号体系の網の目を絞ったものになっていることには注意。)
注(1)「神話分析の目的は、人間がいかに考えるかを示すことではない。そうではありえない。[・・・]中央ブラジルの先住民たちが、自分たちを魅惑する神話物語をおもいつくのみならず、わたしの分析の結果である関係の体系を実際に思いついているのかどうかは、少なくとも疑わしい。[・・・]わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである」(神話論理Ⅰ:20、強調は引用者)。
[参照文献]
小田亮2000『レヴィ=ストロース入門』ちくま新書
スペルベル、ダン
1979 『象徴表現とは何か』 菅野盾樹訳 紀伊国屋書店
1984 『人類学とは何か』菅野盾樹訳 紀伊国屋書店